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2013年5月31日

上手いとはどういうことか?


少しTwitterで書いた事をまとめてみる。
自分の行為をきちんと第三者に説明出来ることが、スキルとして身に付いているということではないだろうか。線を引くにしてもなんとなくではなく、どうしてその線を引いたのか、どうして何本もひかなくてはならなかったのか、どうしてその曲線を描いたのか。
上手く描けないときは、その対象の構造が理解できていなかったり、自分で説明出来るだけ見えていなかったり、あいまいなままにいい加減に手だけ動かしてしまっているとき。分からないことを分かろうとするか、そのままにするかで、結果は大きく変わるだろう。
分からない事を分からないままですませたり、少し角度を変えれば見えることをさぼったり、雑になってしまうと、とたんに結果が悪くなる。知りたい、理解したい、という好奇心、欲求を常に持ち続けることが大切、というか僕がどうしても気になってしまうのがそういう部分なのだ。なので古生物の復元画を描くときはできる限り資料を集めないと描けないし、最後まで分かることのできない、実物を見て確認する事のできないストレスがついてまわる。

単純に上手い下手という話になると、その判断基準のほとんどは好みかそうでないかに陥ってしまうことが多々ある。それは客観的な指標とはいえず、あまりに主観的でしかない。
一面的な判断基準ではあるが、その画面の隅々まで作者はきちんと説明出来るものに仕上がっているかどうかということが、客観的な指標として重要であると考えている。曖昧でよく分からないままに描くと筆は迷う。色彩も決まらない。雰囲気で見せるのもひとつの上手さではあるが、分かっていないであろうことを、誤摩化されるように見せられるのは違和感を覚えてしまう。そのほころびがずっと気になって画面に集中できなくなってしまうのだ。
自分で行った全ての行為をきちんと第三者に説明することができるかどうか?
スキルとして、プロとして、非常に大切なことであると、最近強く感じている。



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投稿者 corvo : 23:30

2013年1月21日

総合大学に芸術学部を。


僕は研究者と仕事をする事が多い。古生物の復元画制作のように、彼らが頭の中で描いているビジョンを、全てではないが具体的にビジュアル化する作業を主に行っている。何度もやり取りをしながらイメージを具体化していくプロセスは、本当に興奮するし(時には大きなストレスもかかるが)、完成したときは大きな達成感を得ることができる。
昨年末にかかりきりだった丹波竜の骨格図の制作では、往復45通にわたるメールの記録が残っている。

今日も一件、研究者からの発注で打ち合わせをしたのだけど、どうして日本の総合大学にが芸術学部がないのか?という質問を受けたのである。アメリカの総合大学には芸術学部があるのに、日本にはなぜないのか。現在、彼が所属している研究機関でもアーティストやデザイナーがいないことで、研究内容を分かりやすくプレゼンテーションしたり、論文に掲載するイラストレーションを発注したりすることがスムーズに出来ず、僕のようなところに助けを求めてくることが現実となっている。
僕としては嬉しいことだが、もっと効率の良い上手い仕組みが作れないだろうか。
現状、博物館や研究機関が誰か専属の人間を雇うことは現実的ではないだろう。一人のアーティストやデザイナーが、ビジュアル表現に関する全てのスキルを持っているわけではない。研究が細分化されているように、イラストレーターとデザイナーを比べてみても、その仕事の内容は全く別物だ。
もっとも現実的な形態は、それぞれのプロジェクトに適した人材を集めて、終了したら解散といったものだろう。僕らはチームを組んで仕事をすることに慣れているし、それぞれの分野で最大のパフォーマンスを引き出す可能性が高くなるだろう。専属で一人雇ってしまうと、その人間が得意でないことまで頼むことになり、非効率きわまりない。餅は餅屋。

一番の問題は、今の日本の美術系大学に、サイエンティフィックイラストレーションを教えているところがなく、その教鞭をとる人材も全く不足していることだ。僕自身もサイエンティフィックイラストレーションが専門とはいえない。要するに必要とされる人材を供給できる道筋がないのである。
そこで、以前から思っている、東京大学の中に東京藝術大学を芸術学部として組み入れるという案だ。総合大学に芸術学部がないというのは、大学として大きな欠点ではないだろうか。
芸大にも美術解剖学の授業があり、東大医学部から非常勤の先生も来られていたが、東大の医学部の学生と同じに授業を受けるようなカリキュラムはなかった(まったくついていけなかったと思うが)。また医学部生が芸大でスケッチを学ぶようなカリキュラムもない。
これが同じ学内であれば、もっと連携してカリキュラムを組むことも可能になるだろう。ただし、美術大学に行くにも学科の比重が大きくなる。かつての僕には無理だ。でも、もっと努力した可能性はある。多分。

美術大学が今の地位に甘んじている限り、いつまでたってもクリエイターの地位は高くならない。
まっとうな大学とは見てもらえない。

東京大学の芸術学部となる、その先鞭を東京藝術大学には是非ともつけてもらいたいものである。



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投稿者 corvo : 23:42

2010年10月24日

母校の小学校で特別授業と講演会

先週は激務の連続であったのだけど、週末も負けず劣らず激務だった。
数ヶ月前からの依頼であったにも関わらず、本格的な準備を始めたのが前日というダメさ加減。金曜日の夕方に納品を終えた後、ナチュラルハイでふわふわした疲労感を抱えたままに、ワークショップ用の頭骨の図版を制作。
さらにスライドショーをkeynoteで作り直したりと、睡眠時間を極限まで削ることになってしまった。
約2時間の仮眠の後、三重県の母校に向けて車で出発。こういうときは不思議と眠くならない。
小学校を卒業して29年。本当に久しぶりの小学校だった。この地域でもっとも歴史の古い「誠之小学校」。
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初めて足を踏み入れた新校舎。
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こちらの校舎は僕が小学校1年生のときにできた、当時の新校舎。耐震補強を施されていたが、ほぼ当時のままである。
特別授業は朝の8時50分から。準備があるにも関わらず、小学校に着いたのが8時30分過ぎ。落ち着く間もなくすぐに準備にとりかかる。
2時限続きの授業を設定してもらい、最初の時間にティラノサウルスの頭骨を復元するワークショップ。その後、僕の仕事をスライドショーで紹介するという内容。この特別授業を午前中は3年生に、午後は4年生に、さらに希望する児童にワークショップだけ放課後に行い、午後7時からは大人向けの講演会というハードスケジュール。後から振り返ってみると、けっこう無茶苦茶だな。

ワークショップの手順は、頭骨の図版をまずトレーシングペーパーに写し取り、その上から軟組織と皮膚を加えていく。当然、最初から上手く行くわけがないし、完成することをこちらは望んでいない。模範解答もなし。鼻腔と眼窩と耳の位置だけは解説。
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児童に配った頭骨の図版。
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これは放課後のワークショップで、子供たちと一緒の時間で描いたもの。事前には準備をしていかなかった。
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熱心に取り組む子供たち。

夜の講演会はちょっとした同窓会のような感じに。彼らの子供たちも同じ小学校に通っており、昼間に授業を受けた子たちの中にも何人かいたようだった。言われてみると、皆、面影があった。
全てのスケジュールを消化した後、同級生たちと市内の居酒屋へ。楽しかった。とにかく楽しい時間だった。
準備にばたばたしてしまったが、無事に全てを終えることが出来てほっとした。どんなことでもいいので、子供たちの印象に残ることがあれば良いのだけど。良い経験が出来ました。

日曜日は午後に三重の実家を出て関西事務所へ戻り、ほとんど休むことなく、京都市内で開催中の成安技芸制服再現プロジェクト展覧会の搬出の手伝いへ。
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日曜日の京都市内。駐車場を探すだけで30分以上さまよってしまった。
雨の中、荷物を積み込んで大学へ届けて業務終了。最近の学生は免許持ち、車持ちが少ない。僕が学生の頃は、銀座でもどこでも、レンタカーを借りて良く行ったものであるが。

ああ、とにかく疲れた週末でした。

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投稿者 corvo : 23:45

2010年7月14日

怒りに満ちた一日

火曜日はゼミ授業の日。終日、怒りに満ちた日だった。
以前にお知らせした通り、最初のゼミ展が19日(月)から始まる。搬入は18日日曜日の夜7時から。そう、もう日がないのである。実質、制作に割けられる日数は4日だ。
ほとんどの作品は出来ていて最後の仕上げを残すのみ、というのが理想的な段階である。
僕自身も月末にグループ展を控えているので、学生たちのゼミ展のスケジュールに合わせて、新作の制作をしてきた。それがこれまでもたびたび制作プロセスを紹介してきた、次の2点である。
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ゾウの胎児のほうは11日に額装が完成するように、少々無理を言ってお願いし、頭骨のほうは月曜日の授業のない時間に完成させた。13日のゼミ授業に間に合わせるためだ。

授業の冒頭に、僕から学生に次のような言葉を送った。
「僕は今月末にグループ展を控えているので、ちょうど良い機会と思い、君たちのゼミ展のスケジュールに合わせて新作を制作してきました。普段は授業や会議もあり、フリーの請負仕事の締め切りにも追われ、十分に制作に時間を取ることが出来ません。それでも、少しずつ空いた時間を見つけて、制作を進めてきた結果、なんとか完成させることが出来ました。今、ここに持ってきた作品がそうです。
君たちは、僕以上に制作時間があったはずです。バイトがあると言っても、僕の大学業務の拘束時間に比べれば短いでしょう。集中して制作できる環境もそろっています。
この前期は結構多くの学生と遊んできました。朝までカラオケに付き合ったり、お酒や料理を作ってふるまったり、一緒に遊んだ学生も多いと思います。
がちがちにこもって、業務以外の時間を制作に当てていたわけではないです。
僕は単身赴任なので、遠い自宅に帰ることもあるし、東京での打ち合わせもありました。
さて、これから君たちの作品を拝見するわけですが、当然、僕よりも密度の高い制作が出来ていることでしょう。上手い、下手の問題ではありません。どれだけ時間と情熱と持てる技術を、自分の制作物に投入することができたか?そこが重要です。
さあ、見せてもらいましょうか!」

結果は最低、最悪。完成した作品を見ることはおろか、全行程の一割にも満たないようなものまで存在した。何を考えているのか。
学外で展覧会をするということは、大学の授業の延長ではない。好むと好まざるとに関わらず一人の作家として見られることを意味する。そこが決定的に意識出来ていないので、どういった展示にするのか、額装はどうするのか、具体的なイメージも出来ないのである。
これから4日で好転するとも思えないが、散々プレッシャーはかけてきたので、死ぬ気で制作してもらわないと。

夕方はある研究生に面談、というか説教。先週の木曜日、デザインフェスタの出展申込書の記入のため、聞きたいことがあったので電話をかけたところ大学の側にいるのですぐに行きます、という返答。トートバッグを作っていた時だったので、版画工房で待っている旨を伝えて電話を切ったのだけど、待てど暮せど来ない。夜10時、施錠の時間になってしまったので、しかたなくその日は帰宅した。次の日になっても連絡はなく。日曜日もそのまま。月曜日の夕方にこちらも堪忍袋の緒が切れて、メールで呼び出すことに。
ということで火曜日夕方に、研究室まで来てもらったわけであるが、結論から言うと「忘れてました」。いいね、それで済むんだ。
ゼミ授業と相まって、怒りが増幅。

その後、出かける用事にしていたのだけど、少し時間があったのでふらっと4年生の実習室を覗きに行くと、あれほど僕からプレッシャーをかけられたのに一部の学生がカードゲーム(トランプのようなもの)で遊んでいる。見た瞬間、完全に沸点を振り切り、「お前ら、ええ根性しとるのお、遊んでる余裕あるんか!」と一喝。さらに怒りが増幅。

とまあ、そんな状態で同僚の先生と映画を観に行ったのだけど、そちらはとても楽しくまた別のエントリーででも。

最後、湖西線の終電が大雨で遅れている路線の到着を待つことになって、約25分遅れでの出発になってしまった。普通ならとっくに家に着いている時間だ。最後の最後で、憤懣やる方ない一日の締めになってしまったのである。
本当に怒りに満ちた一日だった。

でも、実はいまだにその怒りはおさまっていないのである(終電の件ではないですよ)。

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投稿者 corvo : 01:23

2010年6月28日

視野に入ること、発信すること。

最近、ちょくちょく読んでいるblog『オタク商品研究所plus』のエントリー「視野に入る」になるほどと納得。短いエントリーで、しかも伝聞をもとにしているのだが、学生に対しての評価にも重要なことだと思う。成績をつけるときは、どうしても”採点”という方法をとるので得点に目が行きがちだが、いざ作品を世に問うということを考えたとき、その作品の持つ存在感が際立っていないと埋もれてしまう。
ここ何ヶ月か4年生のゼミを指導していて思うのだけど、僕の”視野”に入ってこようとする学生が少ない。強引に僕の頭をつかんで、そちらを向かせるようなことをしてもらっても一向に構わないのだけど、とにかく見せたがりな学生が少ないことが気になっている。我々の仕事、人に見られてなんぼである。見てもらえないものは、この世に存在しないも同じだ。

といったことと関連して、徳川君から教えてもらった別のblogのエントリーが「創作することと、発信することは違います。」も、とても近い話である。
もうひとつ面白かったのが「ヘタの壁」。この発想は僕にはなかった。でも、僕自身も始めようと思って躊躇していることがいくつもあるのは、このワナにはまっているのだなと実感。

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少し減ってきたけど、まだまだ。

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投稿者 corvo : 12:44

2009年4月22日

『シリーズ芸美(芸大美大をめざす人へ)』

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先日、路樹絵に伺った時、何気なく本棚を探っていると、見覚えのある画像が。「シリーズ芸美(芸大美大をめざす人へ)」という美術大学受験のための参考書に、僕が学部生のときデモンストレーションを行った作例が掲載されていた。確か1991年だったので、もうすでに18年前の出来事だ。いまだに新刊で入手出来る本に使われているとは驚きだ。当時、掲載されていた本は別のものだったのだけど、新たに編集されて再掲載されたようだ。
デモンストレーションということで、匿名での掲載であり、制作したデッサンも編集部に持っていかれたので、この作例が僕のものだという事を証明する証拠は実はない。写真に写っている手は僕のものでしょ、ほら、というぐらいかな。
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6時間で制作したので、比較的速描きのもの。モデルをやってくれたのは、デザイン科の同級生だった。
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顔はそんなに似てないなあ。木炭紙に木炭、溶き木炭、鉛筆の併用で制作。
それぞれのプロセスのサブタイトルを見てみると
・さまざまな素材を用意する。
・イメージを大切に完成段階を想像して
・楽な気持ちで画面をつくる
・人体の構造を大切に描写する
・個々の描写を進めつつ空間を演出する
・全体感を大切に
・画面のすみずみまで気を使い完成へ
今学生にアドバイスする時の言葉と、ほとんど同じかもしれない。基本はいつまでたっても同じであり重要なのだと実感。
懐かしい気分になるとともに、過去の自分に出会えたような、そんな感覚だ。今とはスキルに大きな差があるが、変わっていないところもたくさんあるものだとあらためて思った次第である。
人物デッサン・油彩―油絵科 (シリーズ芸美)

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投稿者 corvo : 23:38

2009年1月12日

イラストレーターか画家か

僕は自分の肩書きを書くときに、「画家・イラストレーター」と併記する事が多い。
現代においては、二つの職種は分けられているのかもしれないが、本質的にはそれほど明確な線引きがあるわけではない。
Fine artと呼ばれるジャンルの名だたる巨匠の作品のほとんどは、パトロンやクライアントからの注文があって制作されたものである。特に『パトロンたちのルネサンス―フィレンツェ美術の舞台裏 (NHKブックス)』を読むとルネサンスの時代、作品の内容についても作家に主導権がほとんどなかったことがよく分かる。
画家とイラストレーターを区別する必要は、はたしてあるのだろうか。僕はないと思っている。
僕が自分の描きたい作品を作る事だけに固執していたら、今まで絵を描き続けことは出来なかっただろう。イラストレーションというクライアントの要望に添って制作し、報酬を受け取ることが出来るようになったからこそ、生活を維持し環境を整えることもできた。また、デザイナーや編集者、研究者と共同作業をする事で、自分の位置を確認し、何を求められているかを知る事が出来たのもとても大きかった。
僕はずっと絵を描き続けてきた。絵を描く事で報酬を得て、生きてきた。最初の数年はアルバイトをしながらの、フリーターに近い生活の時もあったが、ここ数年は絵の仕事だけの売り上げで、少ないながらも納税してきた。今年の4月からは大学に職を得たが、それまでは就職した事もなく、絵を描く事が収入のほぼ全てを占めていたのは事実である。
僕が自分の中で線を引いているとすると、イラストレーションはクライアントが他者で、自分の作品は自分自身がクライアントだ、ということぐらいだろうか。
画家かイラストレーターかと問われれば、それは自分で決めるというよりは他者がどちらで呼んでくれるかという点が大きいかもしれない。
僕が自分を紹介するならば、「プロの絵描き」というのが一番しっくりくるのである。

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投稿者 corvo : 20:28

2008年12月21日

アトリエ路樹絵で美術解剖学の講義を受ける

今日は、美術モデルhiroさんのお誘いを受けて、京都にあるアトリエ路樹絵で開催された、hiroさんによる人体の美術解剖学のレクチャーを受けてきた。この会のもっともユニークな点は、hiroさんが自らの肉体を使って解説するところにある。おそらく日本では唯一の存在だろう。日々のたゆまぬ節制からビルドアップされた彼の肉体は、内部の筋肉が手に取るように分かる。また、動きによって移り変わる筋肉の形状を、分かりやすく丁寧に解説してもらうことができた。僕自身、勘違いして覚えていた部分や、今ひとつ理解出来ていなかったところも分かって、非常に有意義な時間を過ごすことが出来た。
現在、多く流通している解剖学の本は、それが美術解剖学のものであっても、遺体をスケッチしたものばかりだ。しかし、hiroさんは自分の生きた肉体を使って、視覚的に見せることができる。もちろん、深層筋まで身体を裂いてみせるわけにはいかないが、絵を描くのに必要な情報を得る事には、全く問題ない。

レクチャーだけでなく、クロッキーにも参加することが出来たのが、最初からいきなり6分のダブルポースを3連チャンだった。考えてみると、ダブルポーズを描くのは初めての経験だ。
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最後まで描ききれていない。
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これはレクチャーの時のスケッチの一つ。各部位を停止したポーズで、丁寧に見せてくれる。
左上は、肩甲骨に付着する棘下筋と大円筋、首から背中にかけての僧帽筋。肩の三角筋をスケッチしたもの。右下のスケッチは、肘の位置によって変化する背中の筋肉の特徴を描いたものである。左右で変化をつけてスケッチしている。
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これは4分ポーズ。ようやく、ましなものが描けたと思った1枚である。
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最後のダブルポーズ8分。描ききることが出来ていない。まだまだ修行が足りない。
今回、もうひとつ目から鱗だったのが、レクチャーのために使われていた教本である。それは筋力トレーニングのためのものなのだけど、それぞれのトレーニングによって、どこの筋肉を刺激する事が出来るかが、詳細に分かりやすく、美しいスケッチで図示されていた。早速、アマゾンに注文。

来年度、hiroさんには大学の授業でも協力していただくことを考えている。

これほど素晴らしく、貴重な出会いはそうそうない。今日はとても嬉しい1日だった。

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投稿者 corvo : 23:01

2008年12月14日

言葉にすることの危うさ

先日の授業で、ある生徒にアドバイスを求められて話しをしたときの出来事。
「ここの背中のラインがおかしいと思うなあ」
「もっとなめらかにすればいいですか?」
といったやりとりだったのだけど、「「なめらかに」という言葉を使うべきではない」という話しをしたのだった。
まず、「なめらかに」という言葉を発してしまう以前に、その背中に構造としてなにが含まれているのかということを考えなくてはいけない。横からの角度だったので、肩甲骨が目立つ。また、左右の肩甲骨に挟まれた僧帽筋も重要である。首から背中にかけての脊椎のつながりも意識出来ていないと、きちんと身体の中心に首がつながらなくなってしまう。そういったもろもろの情報を描いていった上で、「なめらかに」見えるようになるのであれば、なんの問題もない。それを最初に「なめらかに」という言葉で縛ってしまうと、ぼろぼろと多くの情報が抜け落ちてしまい、描き込む事が出来なくなってしまう。
漫画のキャラクターのように「太った」「やせた」などと単純化することで、より明確にするときには、言葉で記号化することは有効な手段であるが、デッサンやクロッキーにおいては出来る限り避けなくてはならない。
漫画やアニメのキャラクターのようなものは、すらすら描けるのに、実際のモデルを目の前にすると、とたんに手の動きが鈍ってしまう学生も多い。人体の持つ、膨大な情報量を上手く整理して捉えきれていないように思うことがしばしばある。美術解剖学はそういった点でも、有効なツール、考え方のひとつになる。
きちんと学生は分かってくれたので良かったが、これからも繰り返し伝えていく事が必要だろう。


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投稿者 corvo : 23:06

2008年11月17日

生身のヌードモデルを描く事とは

昨晩、つらつらとネットを見ていたら、おもしろい記事に行き当たった。
現役美術モデルHiroさんのblog のエントリー『アニメーターに生身の人間デッサンは必要か』である。
僕が現在教えている大学のクラスには、アニメーターや漫画家志望の学生がたくさんいる。今年から、ヌードモデルのクロッキーやデッサンの授業が大幅に増えたのだけど、学生たちの話しを聞いてみると「描きたかった」という意見がとても多かった。アニメーションや漫画では動きのある人体の描写が不可欠である。特にアニメーションは動画であり、デフォルメされているとはいっても、人体の基本的な構造を知らずして、動かす事は困難なはずだ。
描き込んだデッサンをもとに、タブローを制作するというプロセスはあまり必要ないかもしれないが、クロッキーを数多く描く事で、自然に人体の動きや構造を理解し捉えていくことはとても重要なはずだ。

さらに、Hiroさんのblogを見ていて見つけたリンクがあって、こちらも面白かった。
三次元ヌードへの拒否反応』、『股間を描け』。
モデルのポーズ中に、気分が悪くなって退出した学生が何人かいたという話しだ。緊張のあまり体調を崩すということはあると思うが、こういった事例があることは初めて聞いた。
本文から一部引用させてもらう。
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「アニメーションコースに来るような学生は、だいたい女の子の絵を厭というほど描いている。実物の女のヌードを目の当たりにする前から、女の子のヌードの絵も描いている。そこで頭の中に、かわいくて理想的な女の子の身体イメージというものが、既に確立されている。

しかし。現実の女性はアニメ絵とは違う。ずっとずっとナマナマしくリアルそのものだ。二次元では余計なものとしてあらかじめ省かれたり簡略化されたりしている細部もある。体を捻った時にできる皺とか脂肪の盛り上がりとか毛とか、その他いろいろ。

頭の中の女の子像とそれらとは、もちろん一致しない。どんなきれいなヌードでも、アニメの女の子のようには脚が長くないし、じっと見ていればさまざまな「ノイズ」が目に入ってくるのは当然だ。そのことに耐えられなくなって、気分が悪くなるのである。」
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幸い、僕の授業でこういったことは起きていないが、今後、全くないともいいきれないだろう。

もうひとつ興味深かったのがこのエントリー『個性は獲得目標ですらない』。非常に良い記事だと思います。

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投稿者 corvo : 13:12

2008年7月20日

第15回美術解剖学会大会

蒸し暑かった金曜日に関東本部へ移動。まるでサウナの中にいるような1日だった。土曜日は朝から第15回美術解剖学会大会に参加してきた。
昨年の大会では一般講演発表したのだけど、今年本当に時間がなくて準備することができなかった。来年は発表しよう。ネタはいろいろあるし。
今年の一般講演は全体に低調だった。内容の前に、運営の段取りが良くない。プロジェクターやスライドの機械の不調もあったのだけど、アクシデントがあったときの対処が良くなくてスムーズな進行とはいいがたかった。会場は設備が古いとはいえ東京芸術大学である。もっとどうにかならないものか。また、発表者のプレゼン能力も低く、なれていないという印象の方が多かった。「美術」という言葉がついている以上、プレゼンテーションには気を使ってほしいと思う。論点を明確に、わかりやすく見せてほしい。最初の方の講演でずけずけ質問をしていたら、発表もしていないのに結構目立ってしまった。
午後のシンポジウムは『レオナルド・ダ・ヴィンチと美術解剖学』という本当に楽しみなタイトルだったのだけど、午前中から続く機械の不調で激しく中断するぐだぐだな進行。今時、スライドを使うというのもリスクが高い。普段芸大でもほとんど使ってないのではないだろうか。年齢に関係なく、パソコンを使ったプレゼンが必須なのかもしれない。
非常にアクシデントも多く、暑く不快指数の高い一日だったのだけど、非常に良い出会いもあり充実した一日だった。無理して東京までいって正解。次は発表しないとね。

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投稿者 corvo : 23:39

2008年6月 4日

間合いが大事

間合いというか距離感の話。
2ヶ月間大学で授業をしてきたのだけど、昨今の美術体験の少なさからか、対象(モチーフ)に対する距離感が悪い学生が多いのではないかという印象を持っている。それはどういうことかというと、そのモチーフを描くときに得たいと思う情報量に対して、立っている位置が遠すぎるのではないかと思うことが多々あるのである。
これは視力の問題ではない。自分が描こうとするイメージに近づける理想的な距離というものの存在を、あまりに無頓着に考えているように思えてならない。またイーゼルをおく位置も理想的とはいえない場合があり、いちいち姿勢を崩してのぞきながら描いている学生もいる。もちろん注意するよう指導もするし、僕自身が描いてみせることで、かなり改善されてはきている。
対象への距離の問題は構図にも影響する。絵画にとっては非常に重要な問題だ。神経質になりすぎておかしくないほどに大切なことであることを、学生には認識しておいて欲しいのである。

仕事は相変わらず激務。
「まだ、終わらんよ!」(by クワトロ・バジーナ)

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投稿者 corvo : 03:25

2008年5月24日

骨、届く

待望の骨が届く。骨と言ってもレプリカではあるが、精巧な男女の頭骨15個。男性が8個に女性が7個だ。本当はこの倍の数が欲しいのだけど、予算の関係で今年はここまで。
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夕方、内線電話をもらって教務課まで取りにいったのだけど、あんまり喜んで荷物を受け取ったものだから、「子供みたい」と言われてしまった。箱を開けて取り出してみて、出来の良さにさらににんまり。知り合いの業者にお願いして入手。納期についても金額についても相当無理をしてもらった。感謝です。
これで来週の授業から、ばっちり使えます。
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投稿者 corvo : 00:01

2008年5月15日

ヌードクロッキー

昨日、今日と受け持ちの授業でヌードクロッキー。今回は男性モデル。僕自身、男性のヌードを描くのは何年ぶりだろう。思い出せないぐらい過去のことである。
筋肉質で贅肉がない素晴らしいモデルさんだった。積極的にコミュニケーションをとってくれるので、こちらの意図も理解してくれる。
2日間同じスケジュールでポーズをとってもらった。午前は1分 x 20ポーズ。5分 x 4ポーズ。午後からは1分 x 20ポーズ。5分 x 4ポーズ。10分 x 2ポーズ。20分 x 1ポーズ。午前は1年生、午後は2年生の授業。僕はどちらの授業も担当しているので、1日だけで合計51枚のクロッキーを描く事になる。2日で102枚。ものすごい勢いでクロッキーブックを消費している。
美術解剖学をベースに人体の構造を理解することを主眼に置いているため、骨格、筋肉がよく観察できるポーズが望まれる。その要望を的確に具現化してくれるモデルさんだった。女性に比べて筋力があるため、1分ポーズではよりアクロバティックな姿勢をいくつもとってくれた。学生たちも楽しんで描けたようだ。
以前のエントリー大学での初講義でも書いた、「ヌードクロッキー、デッサンについての心得」が学生にはしっかり浸透しているようだ。今のところモデルさんに対して失礼はないし、私語をすることなく一心不乱に描いている。常に僕も描いているので、気を抜く事ができないということもあるかもしれない。
男性モデルは数が少ないため、なかなか描く機会がないので、積極的に授業では取り入れていきたい。
これだけまとまってヌードを描くのはいつ以来だろう。どんどん上手くなっています。

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投稿者 corvo : 23:28

2008年5月11日

高大連携講座

土曜日。大学で開かれた高大連携講座に講師の一人として参加。
講師と言っても初めてのことで、助手のような役割。内容については詳しく書けないが、高校生に向けて大学の授業を体験してもらうというもので、僕にとって非常に勉強になることの連続だった。
僕自身、絵を描く事を基礎から訓練してきたと思っていたのだけど、その基礎を伝えるには充分な言葉と手段を持っていなかったことを痛感した。
生徒たちの作品が劇的に変遷していく様は、エキサイティングだった。
大学教員になって、もっともエポックメイキングな出来事だったのである。まだまだ勉強することは多い。

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投稿者 corvo : 23:37

2008年4月27日

ヌードクロッキー

先週の水曜日から、いよいよヌードクロッキーの演習と実習が始まった。
午前中の演習は80分と時間が短いため、1分x20ポーズと5分x4ポーズ。午後の実習はゆったりしたスケジュールを組めるので、1分x20ポーズ、5分x4ポーズ、10分x2ポーズ、 20分x1ポーズと徐々に時間を延ばしていくセットでそれぞれの合間に10分の休憩を挟む。当初、1分ポーズは途中1分ずつの休憩をいれる予定だったのだけど、モデルさんのリクエストで連続して次々とポースを変えていってもらうことになった。これは結果的にとても良く、枚数も描けるし緊張感を保ちながらモデルに向き合うことができた。ほとんどの学生がヌードクロッキーが初めてということもあって、粗相のないように事前に約束事をかなりうるさく伝えてあったのだけど、こちらが心配するようなことは何もなく、とても熱心に制作に取り組んでいた。この演習、実習では、僕も学生たちにまじってクロッキーをしている。1、2年生合わせて4クラスを見ているので、毎週学生の4倍の枚数を描く事になる。単純に計算して1日51枚。2日では100枚を超える枚数だ。クロッキーブックが一気になくなってしまう。といっても、1分ポーズを行う事はそれほど多くないので、今後は枚数自体は減っていくことになる。
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これらは1分クロッキー。1分で出来る事は極めて限られている。全てを描こうとしても無理だ。そこでその都度ポイントを絞って描いていく。ポーズにもよるのだけど、重心の位置、格部位のバランス、背骨の角度、的確な構図、等々。といっても、描いている最中は夢中になって手を動かすばかりである。
また、1分ポーズのメリットとしては、かなり無理のあるポーズも可能な点である。10分や20分といった長時間では無理なポーズも、1分でなら様々な体勢を試してもらうことができる。それには身体能力に優れたモデルでないといけないが、今回はとても素晴らしい方だった。
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こちらは5分ポーズ。1分を経た後だと、ものすごく時間が長く感じる。クロッキーとしてもそれほど長いポーズではないのだけど、短い時間を経験した後なので、余裕を持って画面に向かうことができる。
最初のうちはどうしてもアウトラインばかりを追いかけてしまうが、それでは短い時間でクロッキーすることは、とても難しくなってしまう。なので、身体の内部構造を意識する事を常に言っている。そのためにも美術解剖学を応用する必要がある。今は出来なくても、きっと夏休み前には何かを掴んでくれるものと期待している。僕も勉強しないとね。

成安イラストレーションクラスニュース

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投稿者 corvo : 23:55

2008年4月25日

関西事務所2というか大学の研究室

先週から仕事場としての大学の研究室も稼働してきたのでちょっと紹介。
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一つの部屋を二人で使用しており、僕のスペースはこんな感じ。
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書棚。ここだけ見るとなんの研究室なんだか。遊んでいるわけではなく、いたって大真面目な内容である。えっへん。
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ようやく研究室でもネット環境が整って、すこし連絡のレスポンスがよくなると思います。今までアパートに戻らないとメールのチェックもできなかったので。懐かしの首振りiMacが大学から支給されたもの。MacBookは僕の私物。
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再開した新作絵本。大きな机のある学校で制作中。図書館の本も大活躍。

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投稿者 corvo : 23:26

2008年4月21日

YOKOHAMA INTERNATIONAL SCHOOL

今日は朝から、YOKOHAMA INTERNATIONAL SCHOOLへ特別授業の講師として行ってきた。1時間目は午前8時30分からということで、15分を目指して家を出たのだけど、ほとんど渋滞にはまることなく随分早く到着することができた。でも、少し時間を遅らせて出たとしても、大きな渋滞にはまる可能性のほうが大きいので遅刻してしまったかもしれない。きっと、絶対に到着出来ない時間帯があるのだろう。

お題としては「恐竜の復元画」についてのお話。事前に図書館でまとまった数の僕の絵本や図鑑を購入してくれており、読んでくれている子供たちも多かった。朝一のクラスは4年生。INTERNATIONAL SCHOOLでは基本的に全ての授業を英語で行っているのだけど、僕に英語で授業というのは無理な話。そこで生徒の中から一人、ボランティアで通訳してくれるという。45分という短い時間のなかで、実質喋る事ができるのは半分ぐらいの時間だ。短めに準備したスライドショーを見せながら、「復元」についてと「制作のプロセス」を紹介した。通訳も的確でとてもスムーズ。専門用語の部分は僕も補足しながら話してもらった。なかなかはしょるのも上手くて、「6500万年前に恐竜は絶滅してしまったのだけど・・・」という下りは「ものすごく昔に恐竜は絶滅してしまって・・・」なんて意訳になっていた。僕が話したい事は伝わっているので、もーまんたい。
4年生の授業の後は1時間ほど休憩の後、今度は3年生の授業。先生が通訳の立候補を募るのだけど、たくさんの子供たちが元気よく手を挙げてくれる。今度の小さな通訳さんは、本当に丁寧に通訳することに心を砕いていた。でも、通訳することに一生懸命になるあまり、少しずつ声が小さくなっていってしまうのだけど、なんというかとても誠実な人柄と言うか、なかなかすてきな通訳だったのである。
お昼は校内のカフェテリアでビュッフェタイプのランチをごちそうになった。トマト系の味付けが多かったのだけど、さっぱりした味付けで美味しくいただいた。

午後からは2年生。先生方からは「集中力が全然続かない年齢ですから・・・」ということだったのだけど、にぎやかな雰囲気ながら熱心に僕の話を聞いてくれた。さすがに2年生となると通訳は先生がやることになったのだけど、僕の言葉を非常に平易な表現に訳していて、子供たちの目線で話をされているのだなあという部分が良く伝わってきた。この時面白かったのが、僕と先生の間で英語で簡単なやりとりをしていたら、前に座っていた女の子が「なんだ、英語しゃべれるじゃん!(って英語で)」叫んだのがおかしくておかしくて。でも、君たちに正確に言葉を伝えら得るような語学力は僕にはないのだよ。勉強しなきゃねえ。
その後は、当日に急遽頼まれた5年生の授業でも、短時間で簡単に授業。合計4クラスに授業をするというハードな一日でした。
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こんな感じで原画を展示しての授業。このためにわざわざ車で行ったのである。
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子供たちの前でホワイトボードに落書き。

INTERNATIONAL SCHOOLを訪問したのは初めてだったのだけど、面白い経験だった。日本の中にある異国であり、まったく違った文化がそこにある感じだ。何度か日本の小学校でも喋ったことがあるが、常に積極的に発言しようという姿勢はほとんどなかった。皆の前では「恥ずかしい」という気持が先にたってしまうのかな。今回、喋っている途中でも気になったら質問してね、なんて言っておいたら、一言二言話す度に次々と手が挙がる。まったく進まないので、急遽最後に質問タイムを持ってきたのだけど、それでも話をしたくてうずうずしているのが見ていてよく分かる。

僕が一番嬉しかったのは、彼らが僕を「絵描き」だと認識していてくれたことだ。最初に断りをいれなかったのだけど、恐竜に関する学術的な質問はほとんどなかった。「いつから恐竜を描く事になったの?」とか「どういうきっかけで恐竜を描く事になったの?」とか「今まで何枚ぐらい描いたの?」とか、職業としての「イラストレーター」や仕事の内容について興味を持ってくれる子供たちが多かったことに驚いたのだった。
少々寝不足で向かった横浜だったのだけど、とても有意義な経験の出来た一日でした。また足を運びたい学校ですね。話を聞いてくれた子供たち、スタッフの皆様、ありがとうございました。
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投稿者 corvo : 23:43

2008年4月12日

大学の図書館

関西事務所もかなり機能していきているのだけど、大学の研究室も制作の場としてかなり整いつつある。今は両方で違う性格の仕事を並行して進めている。もちろん僕の身体はひとつなので、行ったり来たりしながらなのだけど、大学と関西事務所が近くて本当に助かっている。
自宅から関西に移るにあたって一番問題だったのは資料。僕の仕事の大部分は論文等の資料によって支えられている。この10年にわたってこつこつと集めてきたものだが、それらの全てを持って移動するわけにもいかず、今抱えている案件に必要な最低限の資料だけを持ってきている。そんなとき、大学の図書館が非常に役立つ。造形大学なので古生物の専門書が揃っているわけではないが、町の図書館並みには自然科学系の書籍が並んでいる。動物図鑑等を見る事ができるのは本当に助かる。また、教員は20冊の本を2ヶ月間借りることが出来る。先日、山のように本を抱えて研究室へ持ち込んだ。
自宅にいる時は町の図書館を利用したこともあったけど、どうしても時間のロスが大きく、目的の本がなかったときには徒労に終わってしまう。なので、かなりの金額を使って書籍を買いそろえるしかなかったのである。専門書に関してはこれからも購入する必要があるが、大学図書館にリクエストを出す事も可能だということだ。予算の許す限り、いろいろリクエストを出して行こう。
風邪をひく暇もなく走り続けている、いまはそんな感じです。

なかなか更新できず、コメントへの返答も送れて申し訳ないです。さすがにアクセス数は落ちますね。仕事のペースはつかめてきたけど、生活のペースがまだもう一つなのです。
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投稿者 corvo : 23:42

2008年4月 9日

大学での初講義

今日、大学での初講義。実技カリキュラムなので学生に任せる部分も多いのだけど、ガイダンスの内容も含んでおり喋る事も多い一日だった。僕が担当するのは1年生と2年生で、美術解剖学をベースにした人体描写のクラスである。僕自身、あらためて勉強しなおさなくてはいけないことも多い。
予想外というか思っていた以上に、みな真面目だ。女子学生が多いので、男子学生が少し萎縮しておとなしいようなところがあるのかもしれないが、真剣に課題に取り組んでくれた。この緊張感を半年間持続出来れば、学生それぞれに着実な進歩が見られるだろう。いや、そうあってほしいと願っている。
僕の講座ではヌードモデルを描く事が中心になるのだけど、ヌードクロッキー、ヌードデッサン未体験の学生が多かった。事前にある程度分かっていたので、ヌードモデルを描く時の注意点をまとめたプリントを配り、ルールとマナーを徹底して守るよう学生には伝えた。
その文面は次のようなものである。
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ヌードクロッキー、デッサンについての心得     小田 隆

 ヌードモデルを描ける機会というのは、とても貴重なものです。限られた時間を大切に使うようにしましょう。そして、もっとも大切なことはモデルさんに対する敬意です。常にモデルさんを気遣い、尊敬の念を忘れることのないように、心がけてください。
 
1.遅刻は厳禁です。もしやむをえない理由で遅刻してしまったときは、ポーズが終わるまで部屋の外で待つようにしてください。ポーズ中の部屋の出入りは原則として禁止です。(気分が悪い時は、遠慮なく申し出てください)

2.ポーズ中の私語は厳禁です。携帯電話も電源を切るか、マナーモードにしてください。

3.ポーズ前と後に、必ずモデルさんに挨拶しましょう。気持も引き締まるし、感謝の気持を表現することは大切なことです。

4.演習、実習開始時間の10分後に最初のポーズが始まります。それまでにすぐに描き出せるよう準備をしておいてください。

5.画材はモノクロの素材を中心に使用します。クロッキーブックはできるだけ大きなものを用意してください。

 とにかく良く観察すること。集中すること。全身を使って表現しましょう。
 目と脳と手を直結するように、画面に集中してください。
 最初から描けなくても悲観することはありません。枚数を重ねることで、着実に力がついてきます。
 それでは半年間、一緒に頑張っていきましょう。
---
もともとクロッキーは他人に見せる事を前提にしていない。自分のための訓練という側面が強い。なので作品を並べた講評会はしないということを学生には伝えてある。アドバイスを受けたい時は、直接僕のところへ見せにきてもらうつもりだ。どうしても人と比べたくなってしまうところもあると思うが、自分の描いたもの拙さについつい悲観的になってしまうことも多い。それでやる気をなくてしてしまっては元も子もないので、それぞれが自分に課題を持って、少しでも前進出来るようサポートしていきたいと思っている。
まだ、始まったばかり。僕もたくさん失敗するかもしれない。でも、自分の作品と同様、学生たちにも真剣に向き合っていきたい。
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投稿者 corvo : 23:45

2008年4月 6日

新学期

先週から大学の新学期が始まっており、いろいろな行事に参加。まず2日には入学式と辞令式、そして教員の懇親会。3日はイラストレーションクラスの新入生歓迎会。未成年がほとんどということで、ノンアルコール。僕が学生だったときは、新歓の季節になると連日救急車がやってくるという、そんな無茶苦茶さだった。褒められた事ではない。
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学内のカフェで。料理が美味い。

関西事務所の中も、仕事場机のまわりだけは整備されてきた。
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6畳間の壁際一杯に並べた机の上に、仕事に必要な物を配置している。絵を描くにはこれだけでは手狭なので、繋がっているもう一部屋のほうにも作業机を設置する予定である。大きな画面については、大学にも部屋をもらえているのでスペースはあるのだけど、資料の持ち運びなど煩雑な手間も増えてしまう。
しかし、ここのところ引っ越しなどでばたばたしていたため、かなり腕が鈍ってしまった。この週末でかなり取り戻せたが、ベストの状態にはまだもうひとつである。
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自宅はIHなので、ガスを使うのは久しぶり。業務用にも使える強力なガス代を導入してみたのだけど、これは優れもの。手際が悪いと火の回りの早さに手が追いつかない。ぱらぱらのチャーハンがすぐに作れます。
明日は、初のゴミ出し。これで少し部屋がすっきりする。また、午前中には大学で健康診断。フリーの間に痛めつけた身体の状態がどの程度になっているか。
ようやく生活と仕事のペースをつかみつつあるところである。

それと、久しぶりに猫工房が復活。覗いてやってください。
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投稿者 corvo : 23:50

2008年3月31日

滋賀へ移動

31日にいよいよ滋賀へ移動。一日かけて車で西へ向かいます。
まだ、運ばなくてはいけない荷物が多いため、カングーに満載していきます。少しの間、連絡がつきにくくなると思いますが、4月1日にはネットも開通している予定です。
急用の方は、携帯電話まで連絡お願い致します。
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投稿者 corvo : 00:57

2008年3月24日

モデルの手配

4月から始まる授業のために、年明けからカリキュラムを考えたり、モデルに入ってもらう時間割を決めたりという事をしていた。いよいよ時期が迫ってきて具体的な計画を立てる必要があり、人体デッサン、クロッキーの授業を担当する僕が責任をもってモデルの手配もすることになっている。
まだ、どんな学生が入ってくるのか、どういった内容の授業になっていくのか、僕にとっても手探りの部分が多いので失敗もあるかもしれないが、良質で濃密な時間を提供できるよう努力しなくてはならない。とはいえ、大学なのでこちらが手取り足取りすることはないが、求める学生に対してはどんどん応えていきたい。
ただ最初の授業では、モデルに対するマナーとモラルは、かなり厳格に伝えておくことが必要だろう。常に気遣いを忘れずに、敬意をもって接して欲しい。美術モデルの仕事は肉体的に極めて過酷だ。夏と冬は室内温度の管理も重要で、少々の暑さ寒さは描き手のほうが我慢して、モデルにとって一番快適な温度にしなくてはならない。
なぜ、こんなエントリーを書いたのかというと、ちょっとネット上に気になるスレッドが上がっていたからだ。結論から言えば、そのやりとりの内容はそうとうに酷い(一部まともな書き込みもあるが)。心ある人はスルーするのが良いと思うが、僕の職業にも関わることでもあるので、無視する事も出来ずリンクだけ貼っておく事にする。
ヌードデッサンのモデル
ヌードデッサンのモデル3

数年前の2チャンネルのほうが、よほどまともなやりとりである。
女性ヌードモデルって

ある特定の職業に対する差別意識は、虫酸が走るほど嫌なものである。
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投稿者 corvo : 23:55

2008年3月20日

卒業式

昨日は非常勤講師を勤める高校の卒業式だった。僕も今年度で辞めるので、気持ちに一区切りをつけることができた。
この数年間の授業を振り返ってという主旨で当日配布されたPTA通信に一文を寄稿したので、ここでも紹介しょうと思う。
---
xx校での7年間を振り返って

一枚の絵を仕上げるということは、とても時間がかかるし大変なことです。特に油彩は守るべき約束事も多く、自由気ままに描けるものではありません。そんな伝統的な絵画の技法を中心にした僕の授業は、とても堅苦しいものだったかもしれません。
僕が美術の授業を通して伝えたかったことの一つに、絵を描くという事はとても論理的な思考が必要なのだということです。本来、「感性」なんてあやふやなものは、ほとんど立ち入る余地がありません。画材の特性を理解し、それぞれの材料を丁寧に、ときには大胆に、投げやりになることなく、辛抱強く画面に向かっていく。そうやって2年間に描ける油彩画の枚数は、2枚だけでした。
美術は、自分で発想し、計画し、そして作品を創り上げることが出来ます。あらかじめ答えは用意されていません。課題はありましたが、どんな作品を創りたいかは、各個人にゆだねられていました。迷ったり、混乱したり、分からなくなってしまったり、やる気を失ってしまったり・・・。でも、そんな経験から色々なことを学んでくれたらいいなあと思っていました。
僕はあまり褒めなかったり、単刀直入な物言いが多かったりと、それほど良い先生ではなかったかもしれませんが、真剣に絵を描いたあの時間を、記憶の片隅にでもそっと置いておいてもらえればと思います。
非常勤講師という形でしたが、7年間xx校で教えられた事は、僕にとっても多くの学びの場でありました。とてもとても、感謝しています。

また、いつか会える日まで!

小田 隆
---
昨日になって気がついたのだけど、7年間ではなく実は6年間でした。最後の最後に間違えてしまった。
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投稿者 corvo : 23:11

2008年3月 3日

授業中に描いた絵

非常勤講師をしていた高校では、授業中に時間を見つけて同じ課題を生徒と一緒に描いていた。もちろんずっと描き続けるわけにはいかないので、毎週2、30分程度の制作だったと思うが、久しぶりに描く油絵を楽しんでいた。最初の頃の課題は静物が中心で、途中から自画像や手を描く課題へと移っていった。ここで紹介するのは、僕が描いたものなのだけど、きちんと完成したものは残念ながらほとんどない。生徒達が描く参考になればと思い、描いていたものだ。
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のっけから油絵ではないのだけど、アクリルで石膏像を中心にした静物を描いたもの。
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これは油彩。大きさは全てF6号のキャンバス。
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ミロのヴィーナスとクジャクの羽根。静物画というよりも肖像画ような構成になってしまった。
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背景に自分の好きな世界を描いて、自画像と組み合わせる課題。骨好きとしては、やはりskullでしょうということで。
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これも背景の世界と組み合わせる課題なのだけど、時間がなくて手を描くだけで終わってしまった。
どれもこれも未完成だなあ。描いてみせることで、どれだけのことが伝わったかは分からないけど、集中して細心の注意を払って作業するという面は見てもらえたかな?

土曜日の夜、テレビで「それでもボクはやってない」を見た。男性にとっては身につまされる、ある種の恐怖を感じる内容だろう。なんとも言えないやるせなさ、無力感。そして憤り。もし、仮に僕が同じシチュエーションに立たされたら、一目散にその現場から逃げるしかない、と強く思わざるを得ない。僕は法律について詳しいわけでもないし、裁判の現場を知っているわけでもない。警察の取り調べ、拘置所の中の実際も知る由もないが、映画で描かれていたことが現実に近いとすれば、正々堂々と裁判で闘うというのは、はなはだ不利でしかない。やってもいないことを、やったと認めて、わずかな罰金ですませるか。その場から逃げ去るかだ。僕はこれまでフリーランスでやってきたので、こういったことに巻き込まれても、それほど困ることはないだろうな、なんてお気楽に考えていたのだけど、それはまったくの間違いだ。
この映画を見たら、「痴漢に間違われたら、とにかくその場から逃げる」という人が増えるような気がするのだけど、実際はどうなんでしょう。何度も書くけど、僕は逃げます。全力で。
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投稿者 corvo : 23:40

2008年3月 1日

非常勤講師、最後の授業

昨日の金曜日は、非常勤講師として高校最後の授業。2001年7月からだったので、7年やっていたことになる。けっこうあっという間だったという気がするが、とても良い経験だった。僕は予備校の講師の経験もなく、人に教える経験が不足していたので、最初は試行錯誤の連続だった。あくまでもアシスタントという立場ではあったが、油絵とデッサンの授業を担当し、成績もつけなくてはならなかった。僕を講師に誘ってくれたのは高校の先輩だったのだけど、大変お世話になったとともに、多くのことを学ぶことが出来た。
ということで(仮)野球部のコーチ(だったらしい)も辞めることに。最初は同僚の音楽教師と放課後にキャッチボールを楽しんでいただけだったのが、いつの間にか生徒が集まってきて、最後はノックで守備練習をするまでになっていた。初めはキャッチボールもまともに出来なかった生徒も、短い距離でならボールを受けて投げることができるようになっていた。これからが楽しみだったのだけど、成長を見守ることができなくて残念。
最後の練習を終えた後、顧問の音楽教師と(仮)野球部の生徒たちと食事に行くことになっていたのだけど、学校を出るときにタイミングが合わず一人で行くことに。聞いていた乏しい情報は、「池袋のサンシャイン」と「もばら」という名称の「しゃぶしゃぶ屋」だということ。ところがこれが微妙にずれていた。とりあえず、サンシャイン60の地下駐車場に車を停めて、インフォメーションへ。サンシャインは案内ボードがほとんどなく不親切。受付のお姉さんに、乏しい情報を頼りに聞いてみると、「もばら」という名のしゃぶしゃぶ屋はサンシャインにはないということ。ただ、近くに「モーモーパラダイス」略して「モーパラ」ならあるということを教えてもらうことができた。わざわざ地図まで書いてくれたのだけど、「サンシャイン」ではなくて「サンシャイン通り」だったのだ。幹事はちゃんと情報を渡してださいこの隙の多さが高校生らしいというか、なんというか。次に予定もあったので、1時間ほどでその場を後にして、丸善オアゾに向かう。友人である日本画家の佐藤宏三さんの個展を見るためだ。充実した仕事をされています。長谷寺の屏風絵、春と秋の風景を描いた連作は精緻な描写ながら、非常に迫力がある。時間のある方は是非。リンクはここ
帰宅してからも制作し一枚完成。しかし、楽しくもくたくたになった一日だった。

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(仮)野球部員達が寄せ書きしてくれたバット。子供用なので短くコンパクト。楽しいメッセージが綴られている。ただし、僕が勤めるのは滋賀の大学です。三重ではありません。僕の実家の情報がごっちゃになったのか、誰かに確認すればいいものを、ここでも隙の多さというか、脇の甘さを露呈した高校生達だったのである。
でも、ありがとうございました。
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投稿者 corvo : 23:53

2008年2月16日

STUDIO D'ARTE CORVO 関西事務所開設の準備

タイトルについては、半分冗談、半分本当のことである。4月から成安造形大学に勤務するための部屋探しに、木曜日に妻と出掛けてきた。
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天気も良く富士山が綺麗に見えていた(らしい、というのもこのとき熟睡中)。名古屋から京都までの間は雪が吹雪いていた。そのため予定よりも15分遅れで京都に到着。
事前にインターネットで調べておいた物件を紹介してもらうため、連絡をとっていた不動産屋へ直行。ネットには情報が出ていなかった物件も含めて、5件ほど見せてもらうことに。車で移動して各所を見ていく。一番見たいと思っていた物件は、どうも良くなかった。まずまわりのロケーションが非常に暗かった。駅からはそれほど遠くないのだけど、奥まったところにあって静かというより寂しい雰囲気。部屋は充分に広いのだけど、立って手を伸ばすと届くほど天井が低い。圧迫感がある。築15年ほどということもあって、水回りの設備もそれなりに古くなっている。しかしこの物件、敷金と礼金で28万円という金額が設定されているのに、どうもそれを有効に使っているとは思えない。汚れのこびりついたガス台がそのままになっている。高い金額をとるなら、しっかり直しておいてもらいたい。大家の考え方が見えたようで、早々に撤退。その後いくつか見せてもらうが、あまりピンとこない。結局、ネットに情報のなかった担当者一押し物件に決定。築年数も4年と新しい。駅からも近く、徒歩圏内だ。それほど広くはないが、敷金礼金も常識的な範囲内であり、更新料も無料。見てすぐにほぼ決めてしまった。でも実は室内は見ていないのである。まだ退去前ということで、間取り図と外観、ほぼ同じ広さの他の物件から判断した。まあ、大丈夫でしょう。
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ここが4月からの職場。遠景に琵琶湖を臨むことができる。
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帰りの新幹線の車内ではちょっと贅沢を。京都駅ビルの伊勢丹で買った、牛ひれタタキの寿司とウニ、カニ、イクラの海鮮丼。美味かった。ビールも飲んだことのない地ビールを試したのだけど、いい味でした。
懸案事項だった部屋探しが一段落し、ほっとして帰ってきたのでした。
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投稿者 corvo : 23:51

2008年2月11日

関西の不動産事情

4月からの大学勤務のために、部屋を借りなくてはいけない。地方ということで、首都圏や大都市圏に比べれば家賃相場は低いのだが、関西特有の商習慣に面食らっている。まだ、実際に現地の不動産屋を回ったわけではないのだけど、ここ最近はネットで物件を定期的にチェックしていて気がついたがことがある。
首都圏との大きな違いは、家賃以外の礼金、敷金、保証金の高さだ。家賃がそれほど高くなくても、契約時にかかる金額がかなりの大きさになってしまうことが考えられる。こちらの方だと、礼金1ヶ月または無し、敷金2ヶ月というのが、ほぼ共通した数字だと思うのだけど、関西の物件はとにかくばらばらだ。礼金のほうが敷金よりも高い場合もあり、5ヶ月分とか法外と思えるような金額を設定しているところもある。礼金って、まったく戻ってこない金額だし、そもそも根拠がない。敷居を高くして、入居者の選別をしているのかもしれないが、とてもまともな金額とは思えない。事務所でもないのに、保証金が必要というのも、関東では見たことがない。まあ、これは退去時にある程度戻ってくると考えていいのだろう。
今まで見ていて、べらぼうに高かったのが、家賃6万円ほどの一軒家。礼金25万、敷金25万。これに不動産屋の仲介手数料も必要となるから、とんでもない金額である。一方、礼金、敷金0の物件もあり、何が何だかよく分からない。
敷金は少々高くてもいいから、礼金は0か1ヶ月にしてくれないかなあ。最初から値切るのが前提になっているのだろうか。
今週、日帰りで部屋探しに行ってきます。
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投稿者 corvo : 23:52

2008年1月10日

芸大解剖学教室で集中講義4

今日は芸大での集中講義の最終日。月一とはいえ4ヶ月に渡った講義が終了。前回までは基本的な骨格の復元について解説してきたのだけど、今回は出来上がった骨格図のコラージュをもとに、自由な表現を目指してもらった。
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一見、産状図のようなのだけど、中央に復元された骨格図がある。
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ひたすら画面を埋め尽くそうするように描かれた骨格達。一部、ソラリゼーションのような表現もあって面白い。
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丁寧にトレーシングペーパーに描かれた、オーソドックスな骨格図。尻尾が地面に着いてしまっているのが惜しい。全体のアーチ型を意識しすぎたか。骨格の部位によって色が塗り分けられている。
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こちらはなんと刺繍による骨格図。まだ途中なので、どんな仕上がりになるのか。
僕の講義はこれで終わり。彼女達にとっては、まったく未知の世界の作業だったのだけど、これをきっかけに少しでも興味をもってもらえればと思う。
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投稿者 corvo : 23:38

2007年12月14日

芸大美術解剖学研究室で集中講義3

昨日は1ヶ月ぶりの集中講義の日。冷たい雨の降る、日中からとても寒い1日だった。
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少し早く着いたので、音校の学食キャッスルで「ポークカツ」を食べる。ライスもついて600円(ほんとは610円のところまけてもらった)。学生のときから、多分値段も変わっていない。食券売り場の後ろのメニュ−表も変わっていない。おじさんも健在。注文してから揚げるので少し時間がかかるのだけど、肉厚のある豚肉はとてもやわらかく美味い。味も変わっていない。

今回で講義も3回目。いよいよ本格的な組み立てに入っていく。といっても紙の上でだけど。講義を受けている学生達は解剖学の知識はあっても、恐竜に関する知識はまったくない。僕にとってもどういった出来上がりになるか、非常に興味深い。かなり活発に質問があるので、基本的に間違った復元になることはないのだけど、関節のちょっとしたずれから微妙に異なった骨格図が出来上がりつつあった。
使用している骨格の図版も、化石をスケッチしたものなので、どうしても3次元的な変形がある。そのためきっちり関節させることができない部分があり、最適な妥協点を見つけていく必要がある。
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胴椎のつながりが少し円弧を描くようにつながっている。ほんの少しだけど、ほ乳類的といえるだろうか、
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少し前上がり気味の姿勢。ほんの数ミリずれるだけで印象ががらりと変わるのが面白い。
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僕自身もいつも悩むのが、肩甲骨の位置。これはまだ自分のなかでも正解を見つけられないでいる。肩甲骨の位置と角度で、姿勢が激変してしまうので重要なポイントである。
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簡単なスケッチをホワイトボードに描きながら説明。毎回、ボードを一杯までつかってしまう。
彫刻科出身の学生から、「復元彫刻を作る仕事というのは多いのですか?」という質問があったのだけど、正直に多くはないと答える。ただし、潜在的なニーズはあると思うし、必要だと思っている研究者や博物館関係者は多いだろう。予算などの制約でなかなか実現しないのかもしれないが、どうしてこんなものしか作れないのか?と思うような造形物を目の当たりにすると、きちんと知識と技術をもった作家に出て来てほしいと切に願うばかりである。
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投稿者 corvo : 23:29

2007年11月 8日

芸大美術解剖学研究室で集中講義2

今日は先月に引き続き、集中講義の2回目。実際にアパトサウルスの各骨格を切り抜いてもらい、どうのようにつながるかを検討してもらった。学生達は、基本的にまったく恐竜や古生物に関する知識がないので、先入観なしに復元のプロセスを体験してくれている。
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ひとつひとつ丁寧に切り離していく。黙々と淡々と作業を進めている。
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ホワイトボードを使って、骨の構造を解説。
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大まかに出来上がった状態。なんとなくどんな生物なのかイメージできてきたようだ。ここにきて、「あ、首の長い動物だったんだ!」。いい感じです。イメージや固定観念を持たずに、復元というプロセスを大切にしてほしいと思っている。
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最後にお遊び。
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投稿者 corvo : 23:40

2007年11月 1日

成安造形大学で講義

ちょっとアップが遅くなってしまったが、30日の講義の様子を少し。
朝7時30分に家を出て、新幹線で京都方面へ向かう。車内で本を読もうと思っていたのだけど、ただひたすら眠い。京都駅からは湖西線に乗って移動。
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湖西線のホームから。
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味のある車内と車窓からの風景。
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12時30分ごろには学校に到着。校内のカフェでランチを食べる。
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昨年はスライドショーのデータが壊れていて大騒ぎしたのだけど、今回は大丈夫。講義前に無事テストも完了。必修の単位ということではなかったので、去年よりも生徒の集まりは少ないが皆熱心に聞いてくれて、居眠りしたり私語をしたりということは一切なかった。静かすぎて、ちょっと拍子抜けするぐらい。
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夜は近くのイタめし屋で食事。前菜。
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ムール貝とエビのアラビアータ。このディナーセットで1300円。味も満足。店の雰囲気も良い。
午後8時44分に雄琴駅を出て、自宅に戻って来たのは午前0時30分でした。
11月にはいって、忙しさに加速度がついてきました。がんがんいくですよ。
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投稿者 corvo : 21:49

2007年10月29日

昨年に続いて、明日は集中講義

昨年に続いて、明日は集中講義のために関西に出張。今回は日帰り。
昨年の様子はこちらで。前回、講義用のスライドショーのデータが壊れてしまっていて、大変な目にあったのだけど、今回はすでにノート上で動作確認は済んでいる。大丈夫。喋る内容はほとんど同じなのだけど、今年になってからの仕事の紹介もあるので、多分グレードアップしているはず。オースティンでのSVPの様子もスライドショーにまとめた。
大学の講義なので楽しんでもらうことを第一に考えなくてもよいが、退屈するような話はしたくない。天気も良さそうだし、車窓から琵琶湖畔の景色を楽しんできます。
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投稿者 corvo : 23:29

2007年10月12日

芸大美術解剖学研究室で集中講義1

昨日は一昨年以来の芸大での集中講義。修士1年生対象の必須課題らしい(ということを研究室に着いてから知る)。
院生4名とも女性ばかりとは、芸大も随分変わった。僕が学生のときは、男の方がずっと多かったはずなので、一つの研究室に女性ばかりが集まるというのは、とても珍しく感じる。
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研究室はこんな感じ。この日はスライドショーを使って、僕の仕事の概略を解説。丸善のトークショーの時のデータを使ったので、トップのページに「丸善トークショー」の文字が掲載されたままだった。ちょっとかっこわるい。
1ヶ月に1回ずつ、4ヶ月に渡っての集中講義。今回もアパトサウルスの復元に挑戦してもらうことにした。前回は生体復元までやろうとしたのだけど、僕自身そのノウハウを人に伝えられほど理解が進んでおらず、うまくいかなかった部分も多かったので、骨格復元を最終目標にすることにした。やり方としてはいつもと同じように、ひとつひとつの骨を切り出して並べていく方法である。次回の講義時間までに、自主的に切り抜きをやってきてもらうことにした。どんな骨格復元図が出来上がるか楽しみである。

帰宅してから、ボクシングを観戦。ボクシングをというスポーツをしていたのは、チャンピオンだけだった。挑戦者には、そもそも同じ舞台に立つ資格はなかったと思われた。ジャブを出さないでボクシングになるわけがないと思うのだけど。明日のためにその1も、「ジャブ」だ。
序盤からレフェリーに見えないところで、度重なる反則行為も犯していたらしい。チャンピオンの右目上の出血も。パンチではなくバッティングによるものだったようだ。最後までボクシングに徹したチャンピオン。最初からボクシングで勝つ気のなかった挑戦者。そんな風に思えてしかたがない試合だった。
しかし、試合後の対戦者同士のハグはおろか握手もないとは。通常、勝っても負けても対戦者に敬意を払い、選手はセコンドへも挨拶に行くものである。あまりに酷い挑戦者と挑戦者サイドの態度には、心底呆れた。
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投稿者 corvo : 21:47

2007年9月28日

お見積もり

よく言われる事だが、「絵には値段があってないようなものである」というものがある。
既に亡くなった芸術家の作品の場合は、その金額は天文学的な数字に上るものもあれば、生前に比べて価値が下がるものもある。

僕の仕事でも、クライアントへ見積書を提示することがある。そんなとき、「大体こんなものです」では通用しない。やはり、見積書にも合理的な内容が要求される。なので、簡単な計算式を自分なりに作って、数字を当てはめていき金額を算出するようにしている。絵の値段は明確にある。
気持ちとしては、「もっと欲しい!」というのが常ではあるのだけど、きちんと見積もりの内容を評価してもらったときは、嬉しい気持ちになる(ほぼ全ての場合、ディスカウントすることになるので、ほんとは嬉しくないことも多々あるのだけど、ぶつぶつぶつ・・・)。
もちろん、ギャラリーに並べて絵を売るとなると、まったく違った考え方をしなくてはいけないのだけど、こういったことを意識するようになって、制作をすることが随分と楽になった。
自分が出した見積もりの中で収められなければ、それは自分の責任であるし、仕事の仕方が下手なだけである。
僕が知る限りではあるが、こういったことをちゃんと教えている美術系の大学はほとんどない(皆無かな。知っている人いたら教えてください)。他にも、著作権のこと、契約書の書き方など、仕事をする上で重要なことはたくさんあるのに、美術教育のプロセスの中に入っていないのは、大きな問題だろう。
僕の場合、結局これらのことを、社会に出てから自分で勉強したり、人から教えてもらったりして、たくさんの失敗をして身につけてきたものだ。これは実に効率が悪かった。「独学」の弊害を痛感したものである。
絵を描く技術は、ある程度伝授することは出来ても、どんな絵を描けば良いかを教えることはできない。ましてや、良い絵の描き方、売れる絵の描き方は、自分自身で試行錯誤を繰り返し、模索するしかない。少し前に、骨王さんと話をしたのだけど、アメリカにある教則本(例えば、「シナリオライターになるには」とか)だと、契約書の書き方や、仕事の営業の仕方などに、多くの紙幅が使われているという事である。僕が持っている、サイエンティフィックイラストの本にも、契約の結び方や、契約書のフォーマットまで記載されている。日本のこういった類いの本には、欠落している部分ではないだろうか。
作品を作り上げるアプローチは、基礎という共通点はあっても、それぞれの作家に違いがあり、一つとして同じ物はないだろう。同じ轍を行ったとしても、どこかで違う道を行く事になるかもしれないし、ただのデッドコピーで終わる事になるかもしれない。
そうであるなら、絵というものを通して、どうすれば社会と繋がることができるのか、という実務の面を重点的に教育の中に取り入れるべきではないだろうか。自分は人気があるのか、ないのか、という抽象的な評価ではなく、自分の価値はいくらである、という明確な基準を持つ事がプロフェッショナルとして重要なことではないだろうか。
美術の問題だけに関わらず、他の分野でも大切な視点ではないかと、僕は思っている。
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投稿者 corvo : 23:50

2007年8月30日

「独学」についての追記

 先日、ジョン・ハンターの伝記に絡めて、「独学」について書いたのだけど、もう少し述べてみたいと思う。
 コメント欄でのやりとりもあったのだけど、僕は「独学」を否定しているわけではない。大切なのは、その分野において習得するべき「基礎」をきちんと修めているかどうかという点であり、学校に行く行かないの是非を問うているわけではない。ただ、学校というところは「基礎」を学ぶための、システマチックで効率的な体制が整っている事は確かである。しかし、入学したことに安心して自分から学ぶ意思がなければ、本末転倒でしかない。実際、そういうもったいないことをする人間が、少なからずいることも事実だ。
 僕は美術についてしか語ることができないが、その「基礎」を習得するためには、膨大な時間とエネルギーが必要だった。もし、最初にゴール地点を示されて、そこに到達するまでにはこれだけのことをしなければならなない、という風に説明されていたら、最初から挫けてしまうか、逃げ出していたかもしれない。僕がアカデミックな訓練を始めたときに、先生からいわれた言葉が「素直でいなさい」ということだった。これは今でも通用する、大切なことのひとつだと思う。「基礎」の習得には反復する訓練など、面白みにかけるものも多いかもしれない。それでも、自分が出来るようになることを信じて、一心不乱に邁進する時期も必要である。そういった行為を繰り返してきた結果、「基礎」を習得する事が出来、後ろを振り返ってみると長い道のりだったことを実感する、という感じかもしれない。
 僕はよく、「デッサンは100枚はやらないと」という話をする。この場合のデッサンは、一枚につき最低でも10時間以上の時間をかけた、じっくり描き込まれたものを指す。大きさも木炭紙大(500x650mm)と比較的大きなものである。10時間というと、二日で一枚の計算なので、1年は集中して描き続けなくてはならない。これ以外にも、クロッキーをしたり、エスキースを描いたりということを含めると、その何倍もの枚数になるのが自然である。
 描きたくないものもあるかもしれない。苦手なものもあるだろう。それでも、ただひたすらに手を動かす時期というのは、とても貴重だ。

 古生物の復元を手がけるようになって、必然的に生物や化石のことを勉強することになった。「独学」ということも憚られるほどの、ざるみたいな勉強のしかたなのだけど、研究者とコミュニケーションをとるためには大切である。でも、どれだけ多くの本を読んだところで、高校の生物程度の知識も怪しく、ましてや大学で基礎的訓練を受けていない僕の知識は、プロの研究者の足元には遠く及ばない。しかし、美術において「基礎」を習得することの困難さを経験しているので、素直に彼らを尊敬することができる。俄知識で、彼らを論破出来るなどとは、とても考えられない。

 ちょっと話がずれるが、mixiのイラストレーション関係のコミュを見ていると、時々「教えてください」というトピックが立つことがある。たいていは「どうすればイラストレーターになれますか?」だったり、「プロになるためには学校にいかなくてはなりませんか?」といった類いの質問なのだけど、暖かい励ましのレスがつくことが多い。質問した本人は現在別の仕事をしているが、どうしても夢を諦めきれず・・・・というパターンが散見されるが、個人的には今の仕事を続けた上で、様々な方法を模索するべきだと思っている。なによりも生活を成り立たせる事が大事だからだ。そんなとき「独学」でも大丈夫か?という質問もかなりの確立でセットになってくるので、「すごく大変だから辞めたほうがいい」と書き込みをしたことがある。
 そもそも、本気でどうにかしたいと考えている人間なら、もっと具体的に質問するべきだろう。現時点での作品を見せるわけでもなく、ちょっとネットで調べれば分かる事を、わざわざ質問している時点でおかしいと思う。イラストレーションや美術に関わる事は、何も作家になることでしか実現できないわけではない。それを作家になることだけに絞って、自分の可能性を狭めていくことは得策ではない。本音を言うと、喰えない貧乏な作家未満(かつて僕もそうだった)が増えても、社会的には損失のほうが大きい。まともに仕事についていれば、税金を納める事もできるし、まっとうな日常生活を送る事もできる。描き手ばかりが増えて、それを買ったり鑑賞したりする層が増えないのは、極めて不健全なことだ。

 どんな経歴であろうとも、作品や論文を発表することは自由に出来る。「成果」が評価されるのであって、その人間がどんな経歴であるかは関係ない。とはいっても、誰が描いただの、何々会に所属しているだの、妙なレッテルで評価軸が変わってしまうのも事実ではある。
 「独学にしては・・・」という物言いは、権威に対して唾を吐き、強大な壁に立ち向かっているように見せかけた、もっとたちの悪い「権威主義」に思えてならない。正統なアカデミックな道筋がなければ、「独学にしては・・・」という枕詞は何の意味も持たないのだから。
 これから何かを始めようとする若い人たちや、子どもたちには、「基礎」を大切に「正道」を歩む事を強く勧める。世の中、「独学」でなんとかなるほど甘くない。
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投稿者 corvo : 10:58

2007年8月27日

『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』

 以前に少し紹介したままになっていた本である。何週間か前に読了していたのだけど、なかなか時間がとれずこんなタイミングになってしまった。率直に言って、とてもおすすめな本である。350ページを超える分量があるが、どんどん先を読みたくなり、時間さえ許せば一気に読んでしまいたいほどだった。訳者もあとがきで『最終章を読み終えたときには「もう終わってしまうなんて、もっと読みたいのに」と思った』と告白している。この感想は実に的を得ている。
そう、これは「ジョン・ハンター」という不世出の外科医であり、類いまれな奇人を描いた伝記である。作者はイギリスの女性ジャーナリストである。おそらく膨大な資料にあたり、それらを丹念に紐解いていったのであろうことは、容易に想像がつく。ドラマチックに描かれているわけではないのだけど、ハンターの持つエピソードの凄さと、奇異さに、筆がどんどん引っ張られていくような印象がある。それほどに、興味深いエピソードが目白押しである。
 18世紀の医学は近代的とは言いがたく、いまだにギリシャ時代の考え方が踏襲されており、麻酔もなければ消毒という概念もなかった時代である。また、外科医は一段下に置かれた、手を汚す職業であり、内科医に比べて権威も社会的地位も低かった。そんな時代に突如現れ、解剖を繰り返す事で人体の仕組み、神秘を解き明かそうとしたのが、ジョン・ハンターだ。兄が医者であったとはいえ、幼少のときは勉強が嫌いで、野山を駆け回り自然を観察することが大好きだったハンター少年。やがて兄の仕事を手伝うことになり、その観察力によって培われた、自然物に対する類いまれな探究心が花開くことになる。
 兄からある種押し付けられるように、汚れ仕事である「解剖」を行う事になるのだけど、ハンターはこの作業に瞬く間にのめり込んでいく。手先も器用で手際も良く、標本作りの才にも長けていた。ここで面白いのが、いかに死体を手に入れるのか、という下りである。死刑執行された遺体を、遺族よりも先に奪い合ったり、非合法に墓堀職人と結託して墓地から盗み出したり。また、そのシステムをビジネスとして確立していくところも、不気味さとともに、死体確保に情熱を傾けるハンターたちの姿が生き生きと感じられる。
 体系的な近代医学が確立されていなかった時代においては、解剖を通して独自に知識を貯えていくしかなかった。画家を雇って詳細なスケッチを制作したり、標本を作り保存する独自の方法を編み出したりして、未来につながる知の体系を次々と作り上げていった。彼はそれまでの、間違った説を妄信する権威に対して、果敢に立ち向かい、激しく戦いを挑んでいった。そのため、多くの優秀な弟子を排出し、彼らの多くにとても慕われていたが、同時に敵も多かった。およそ、処世術といったことには無頓着で、高所得と言ってよい稼ぎのほとんどを標本の購入や、死体の引き取り、珍しい動物の購入に、惜しみなくつぎ込んで行った。医学の世界に多大な貢献をしたが、多額の借金がたたって、ハンターの死後、遺族が不幸になってしまったのは、なんともやりきれないものがある。また、彼が残した遺恨によって、義理の弟の反撃にあい、多くの準備段階の論文が失われてしまった。
 ここで、どんなにくわしく書いても、本書の魅力の1/10も伝わらないと思うので、是非手に取って読んでほしいと思う。

 実はここまで長々と書いて来たのは、「独学」ということについて、ちょっと書いてみようと思ったからである。
 ハンターのやってきた方法は、現在であれば「独学」に近い物であったと思う。彼は正規の医学の教育(その内容はお粗末だったとはいえ)を受けていなかったし、それまでなかった方法を開発して、解剖や標本作りをする必要に迫られた。そして、医学に「観察して、推論して、実験する」という科学的手法を導入した、初めての人であった。
 超人的な体力と、たぐいまれな知的好奇心なくしては、とても実現できるような仕事量ではない。だからこそ「独学」というのは、生半可にできるものではないし、出来れば正規の教育を受ける道に進んだ方が良いと僕は思っている。
 絵の世界や、イラストレーションの世界だけではないが、「独学」であることがもてはやされる風潮を感じる事がある。しかし、僕の専門である美術についても、体系的な勉強をしたほうがはるかに効率的だ。デッサンをすることは、地道な作業の連続で、自由な表現から遠いところにあると思うかもしれないが、これまでに積み上げられて来た先人の眼を追体験するように、とても多くのことを学ぶことができる。また、絵を描く事はフィジカルな行為でもあるので、手を動かす修練をするためにも不可欠である。ハンターの言葉を借りるなら「観察して、イメージして、実際に描く」といったところだろうか。
 もちろん「独学」で到達できる人もいるかもしれないが、それは遠く険しい道のりだろう。それに、ひとたびプロになれば、「独学にしてはすごい」なんて枕詞は、なんの免罪符にもならない。見る人にとっては、そこにある画面が全てであり、極端に言えば良い絵かそうでないかだけである。
 ただ、権威に無用な反発をし、進むべき正道を踏み外し、手近な自由を求めたとしても、その先に待っているのは暗い未来ではないだろうか。僕自身は、今日本で受けられる最もアカデミックな美術教育を受けて来た人間の一人だ。だからといって、権威に対して妄信的におもねっているわけではないが、今僕が身につけることができたスキルは、大いにその恩恵を受けている。本当に絵を描いていきたいと思うなら、その欲求を満たすだけでなく、目の前にある困難にも、嫌なことにも、まずは立ち向かっていってほしいと思う。
 実を言うと、僕は油画科に入学したにも関わらず、受験生のときは油絵が大嫌いだった。どうにもあのねばねばとした素材が合わなくて、描く事が苦痛でしょうがなかったのである。そこで僕は、「まずは敵をよく知る事が大切だろう」と、油絵の成り立ちや技法書を徹底的に読み込み、その仕組みから理解しようとしてみた。そうなってくると、どんどん楽しくなってくる。やがては油絵に対するコンプレックスもなくなり、ある程度思い通りに描けるようになった。
 勉強したといっても、大したことではなかったと思うのだけど、目の前の困難から逃げずに、立ち向かえたことは、今でも大きな財産になっていると思う。
 現在は、正規に学べる環境が多く存在している。時間はかかるかもしれないが、「通信教育」という手段もある。「独学」などと言わず、まずはその道の体系的な教育を受けるべきだと思う。間違いなく、鍛えられる。
 少々、教師とそりがあわなかったぐらいで学校を中退してしまったり、そっぽを向いてしまうなんてのは、「根性なし」以外のなにものでもない。
 「独学にしては凄い」なんて、ものすごく恥ずかしい物言いだと、僕は思う。

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投稿者 corvo : 01:33

2007年5月 3日

「capeta」、特待生制度

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「もやしもん」に続き、今はまっている漫画がある。曽田正人作の「capeta」だ。

月刊マガジンで連載が始まったときから、(大きな声では言えないが)立ち読みで追いかけてきていたのだけど、念願の単行本を5巻まで買ってきた(現在13巻まで発売)。これも大きな声では言えないが、全て古本である。著作権で商売している端くれの人間としては、新刊本どどーんと大人買いと行きたいのだけど、こちらにも事情というものがある。
「capeta」は天才の物語である。母親を亡くし、父親と二人暮らしの男の子が、レーシングカートとの出会いから、その類いまれなる才能を開花していく。初めてカートに乗った日から、まさに天才の力を発揮するのだが、結果に至るきちんとした順序が、省かれる事なく描かれている。モータースポーツは、個人の競技と思われがちだが、組織の闘いである。どんなにドライバーに車を速く走らせる能力があっても、車が本来の性能を発揮していなかったり、ライバルよりも著しく遅かったら、絶対に勝つ事は出来ない。いかに天才であってもそれは無理である。
そんな状況が非常に丁寧に描写されている。モータースポーツファンにはたまらない。
だから、一足飛びに結果を出していくわけではない。やるべきことをやり、周囲の人間の理解と指示を集めながら、成功へと一歩一歩進んでいく。実にリアリティのある話ではないだろうか。
いままでの漫画やフィクションの多くは、なんの取り柄もなかった人間が、ある日目覚めて大変な努力をし成功をつかみ取るといった話だったり、天才的な才能に恵まれながらも、あまりにも不遇で不幸な試練を与えられて、へとへとになりながら成功へ向かっていくという話が多かった。そんな話、実際にはほとんど(というか全く)ないのではないだろうか。
平凡だった人間が、何かのきっかけにヒーローに、ヒロインになるといった話のほうが、読者は夢を持てるかもしれないが、所詮、絵空事でしかないだろう、共感することができない。
才能にあふれた人間が成功の階段を駆け上がっていく姿を見守っていきたい。僕は不覚にも、「capeta」を読みながら、何度も泣いてしまった。特に5巻、涙があふれて止まらない。漫画でこんな経験をしたのは初めてだ。
才能ある人間が、その才能を発揮出来る場を与えられて結果を出す。なんて素晴らしいことなのだろう。彼らの足を引っ張ってはいけない。

ここ最近、騒がれている、高校野球の特待生問題。これまでの報道を見る限り、高野連の対応、態度には憤りを感じる。何様のつもりか、いや何様のつもりなのだろう。権力者であることを、誇示しようとしているようにしか見えない。
勉強が出来る生徒にも特待生制度はある。野球以外のスポーツには、制限はないらしい。なぜ、野球だけなのか。今回の一件、誰も得する事がない。高野連のメンツのためでしかないのではないか。野球が好きで、得意で、将来を嘱望されて特待生に選ばれる。それは優遇されることであるかもしれないが、大変なプレッシャーでもある。結果が出せないかもしれない。怪我をしてしまうかもしれない。それでも日々、努力している高校生が試合も出来なくってしまうなんて、あまりにもおかしいだろう。つい最近も、テレビのバラエティ番組での一件をもとに、ある旅館を高野連の指定から外すという横暴を行ったばかりである。
日本学生野球憲章の見直しをするべきなのは明白なのに、ここにきてもなお高野連は見直しをすることはないという。
いっそのこと、プロ野球が新しい組織を作って、高校野球大会を主催してしまったほうが、シンプルではないか。風通しもよくなる。
高野連の職員が100人束にかかっても払えないような税金を払える、そんなスター選手が出てくるのがプロ野球の世界である。日本のことを考えても、高野連など解体してしまったほうが、はるかに有益だと思うだけど、どうなのだろうか。

投稿者 corvo : 03:10

2007年4月23日

「手抜き」なら見せるべきではない

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以前、僕のblogにコメントを書いてくれたことで、時々覗いているblogがある。「ART ROOM」という、高校の美術科へ進んだ女の子が書いているのだけど、悪い意味で気になる記述がある。頻繁に出てくる言葉なのだけど「手抜きです」という一言である。ほぼ毎日更新されており、デッサンやスケッチの画像をアップしているのだけど、それらの多くは短時間で描かれたものらしく中途半端ななものが多い。それを本人も分かっているのか、言い訳のように「手抜きです」という文言をエントリーに書いてしまっているのである。
知人の美術教師もコメントしたり、blogのエントリーで取り上げているのだけど、これから美術に関わっていこうと思っているのであれば、「手抜き」は御法度であることを自覚してほしいと願っている。
プロフェッショナルと呼ばれる人たちは、皆毎日不断の努力を続けている。少しでも向上したいと必死である。せっかく、美術を学ぶことができる学校に入れて、どんどん吸収していける年齢なのだから、いまから「手抜き」だなんて言ってほしくない。
例えblogであっても、作品を見てもらう事を目的にしている以上、いい加減なものを掲載するべきではないだろう。誰かが褒めてくれるかもしれないが、自分でも中途半端だと思っているものを評価されても、はたしてそれは嬉しいことだろうか。幾何形態を描く事が苦手で、どうしても円柱が歪んでしまうということなのだけど、きちんと手順を踏めばそれほど難しいことではない。また、それらを描く事を「つまらない」と思っているようだ。しかし、どんなものでも描くときには感動があると僕は思っているし、感動がなければ描く事はできない。どんなものからも、ちょっとしたことでもいいから、感じてほしいと思うのである。描く事、それ自体がたまらなく楽しいことのだから。
おせっかいながら、以上のようなことを感じたので書いてみました。

投稿者 corvo : 23:25

2007年3月 5日

ギリギリ科学少女ふぉるしい

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春の嵐でした。応援よろしくお願いします。
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昨日のと学会ネタをもうひとつ。「ギリギリ科学少女ふぉるしい」、これ大受けでした。リンク先で視聴も可能。
是非「あるあるスタッフ」には、これをオープニグにした科学番組を作っていただきたい。
世界に水の絵本プロジェクト」に対抗して、皆で応援しましょう。誰か振り付けは考えないのかな。
かたや絵本というオーソドックスな表現手段をとっており、かたやサブカル直球ど真ん中という、実に逆説的でおもしろい現象である。



応援バナーも貼っちゃいます。

投稿者 corvo : 17:03

2007年2月14日

名文「水に芸術はわからない」

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ここのところ文章ばかりのエントリーですが、応援よろしくお願いします。
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このblogでもニセ科学の代表である「水伝」について、いくつかエントリーを書いてきた。自然科学的な側面からは正当な批判が繰り返しされており、科学的には完全に否定されていると言っても間違いない。では、「水伝」の作者である江本勝氏が主張している「これはファンタジーであり、ポエムである」といった側面に対しては、どんな批判ができるだろうか。
そのひとつの解答として朴斎雑志にエントリー「水に芸術はわからない」がアップされた。これは人文系からの「水伝」批判として、まさに名文であると思う。是非、多くの人に読んでいただきたい。
実は僕としてはちょっと悔しかった。レオナルドのモナ・リザを例に、見事な反証を展開されていたからだ。絵画とはキャンバスや紙の上に付着した物質の痕跡でしかない。それが、どうしてこれほどまでに多くの人の心を動かすのか。同じ物質で構成されていたとしても、どうして名画と駄作の間には大きな違いが生まれるのだろうか。それを「水伝」が説明できることは、決してない。「水に芸術はわからない」のである。
もし、仮に朴斎さんのエントリーを読んでも、まだ「水伝」を信じるという方がいたら、その人は日本語が不自由か、読解力に欠けると思わざるをえない。
「水伝」を肯定する芸術家や表現者がいたとしたら、その時点で彼らは芸術を理解していないことを露呈していることになる。
それでも信じたい人は信じればよいだろう。ただし、表現に携わっている人間であるなら、すぐにその世界から退場するべきであると僕は思う。大きなお世話かもしれないが、それほどまでに「水伝」は芸術を冒涜しており、酷い話でしかないのである。

投稿者 corvo : 00:58

2007年2月12日

がんばれ!図工の時間フォーラム 2

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いつもありがとうございます。応援よろしくお願いします。
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前回のエントリーではたくさんのコメントをいただき、大きな反響があった。
このblogへコメントを寄せてくれる方は、美術教育を肯定的に捉えており、「図工の時間が削減されることはとんでもない」という意見を表明してくれている。ここがアートブログであり、僕が絵描きであることから、一般的な社会情勢からは偏っているのかもしれないのだけど、小学校教育の現場にいないものとしては、もうひとつその危機感を実感することができない。
しかし、「図工の時間」を減らしてもなんらメリットはなく、人間形成においても悪影響があるとしか、僕には考えられない。

フォーラムでのパネリストの発言に、図工の時間を経験することでクラスメートについての理解が深まるのではという話があった。普段、あまり目立たないのだけど、図工の時間になると生き生きとその能力を発揮する子供たちがいたりする。物を作ったり表現したりする行為には、その子供の持っている様々なことがないまぜになって立ち現れてくるものである。そうすると、普段見せていなかった一面を発見したり、それがきっかけで仲良くなったりすることがあるだろう。
これは得意不得意、上手い下手といったこととは関係なく、自分とは違う人間がいることを認識することにもなるし、表現の多様性を実感することにもなる。一人の人間が、作品を完成まで責任をもって作ることができる「図工」という時間は、かけがえのないものだと、僕は思う。
前回のエントリーのコメントでも書いたのだけど、「図工の時間はだれもが主役になれる瞬間なのだと思います」。それは多くの楽しみとともに、苦しさもあるのだけど、工夫したり、質問したり、友達と相談したり、素材と格闘したりすることで、他では経験できないことを得ることができる。
算数で100点をとっても、その時点では数学者ではない。理科で100点をとっても、その時点では科学者ではない。国語で100点をとっても、その時点では文学者ではない。でも、図工の時間は、作品が出来上がった瞬間、その作品の作者であり芸術家になれるのである。そんな素晴らしい機会を子供たちから奪うことはできない。
だからこそ、図工の指導、評価は難しい。ひとりひとりが独立した作者であることができるように、教師は気を配らなくてはならないだろう。そんな自信を子供達一人一人が持つことができる授業が理想的なのかもしれない。

フォーラムの後、ティーパーティーで友人と話をしていたのだけど、極論ではあるが学科というのは、学校でなくても習得出来るのではないかということである。経済的な負担を度外視すれば、塾もある、家庭教師もいる、教科書や参考書を使って自習することも出来る。しかし、図工や音楽や体育のようなものは、学校でなくては経験することができない。ピアノ教室や絵画教室のような個人的経験ではなく、友達同士で作品を見せあったりする行為が重要なのである。
そう考えれば、「図工の時間」を削減することが、どれぐらいナンセンスなことか分かるだろう。学校でしか実現することができない授業を減らし、学校以外でも習得が可能な授業を増やすことに意味はない。

とにもかくにも、削減された「図工の時間」を取り戻さなくてはならない。
もし、この考えに反対される方があったら、その意見もお聞かせ願いたい。「図工の時間」を削減しても良いと思っている方のコメントも歓迎です。

投稿者 corvo : 23:56

2007年2月10日

がんばれ!図工の時間フォーラム

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今日はお台場にある日本科学未来館へ、「がんばれ!図工の時間!!フォーラム」に参加するため出かけてきた。
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豊洲からゆりかもめに乗ったのだけど、乗客も少なかったので先頭車両の一番前に座ることができた。埋め立て地の人工的な景色をゆっくりとながめる。
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日本科学未来館を訪れるのは、昨年7月に講演会とワークショップを行って以来である。
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なぜ、「がんばれ!図工の時間」いう活動が始まったのかというと、平成14年度に小学校の図工の時間数が削減されたことが発端である。
高学年は年間70時間から50時間。中学年は60時間に削減されてしまったのである。これまで週2時間連続で確保されていた授業が、隔週で週2時間と1時間が交互に入るという変則パターンになってしまっているのが現状である。これでは満足に実技の授業を行うことは困難だろう。道具の準備や片付けに時間がとられるし、正解のない完成に向かって様々な考えをめぐらせ、手を動かさなくては、作品を作り上げることは難しい。
そのためにも、充分な授業時間の確保は重要である。「がんばれ!」の言葉に象徴されているように、図工の現場から始まった活動というよりも、僕らのような表現に関わっている人間や、ものづくりの根幹となる工学系の人たちが危機感を抱いたことが大きな原動力になっている。僕自身、小学校で教えた経験もないし、授業数削減の実態も知らなかったので、今「図工」が置かれている現状には驚くばかりである。
今回のようなフォーラムは自分自身の認識を新たにしたり、何か協力することは出来ないかと考えるきっかけにはなるのだけど、本当に聞いてほしい人、認識を改めてほしい人には、残念ながらそのメッセージは届かない。この場に来ているのは、図工教育に関心が高いか、教育現場に携わっている人たちばかりである。当然、参加希望者が時間を作って集まってくるのだから、最初から関心のない人間が聞きにくるということはまずありえない。
いくらインターネットが発達したといっても、メディアとしてはあまりに脆弱である。僕がネットの片隅でblogを書いたところでその影響力はたかがしれているが、何かのきっかけになってくれればと一縷の望みを込めていきたい。
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うまくまとまらないのだけど、また気がついたことがあったら、ぽつぽつと書いていきたいと思います。
「図工の時間」削減に賛成という方もいましたら、コメント書き込んでもらえると、より活発な議論ができると思います。

投稿者 corvo : 22:21

2007年1月 8日

「論座」2007年2月号

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ご訪問ありがとうございます。読む前にポチポチっとしていただけると嬉しいです。


1月4日に発売された「論座」に「ニセ科学を考える」が特集として組まれている。実は「論座」を買うのはこれが初めて。
執筆陣は、菊池誠(大阪大学教授)、田崎晴明(学習院大学教授)、左巻健男(同志社大学教授)、山形浩生(評論家、翻訳家)の4名である(敬称略)。菊池さんもご自身のブログで告白されているのだけど、主に「水伝」がその対象となっており、「ニセ科学」全般に対して網羅的な内容ではないが、非常に読みやすいテキストなのでおすすめである。NHKでの「視点論点」に続き、多くの人が目にする媒体で扱われる事は重要なことである。発行部数も多く、小さな書店でも普通に入手できる雑誌で、これだけの特集が組まれた意義は大きいだろう。
内容についてはここでは触れないが、菊池誠氏、田崎晴明氏、両名による「Dear Yoko,」は、この特集の中でもっとも重要なテキストであると思う。
以前、このblogでも紹介した「オノ・ヨーコからのクリスマス・メッセージ」に対する、真摯なメッセージである。
科学者だけでなく、表現者である人間が、「水伝」なるものを信じてしまう事には大きな危惧を感じる。言葉や人間の感情の持つ豊かさや複雑さを、一刀両断に蔑ろにしてしまう「水伝」を僕は決して認める事は出来ない。「オノ・ヨーコ」という影響力の大きいアーティストが、「水伝」は素晴らしいことだと世界へメッセージを送った事にショックも受けたし、失望もした。本来なら心ある表現者から、彼女へメッセージを出すべきだったのかもしれないが、ここでも科学者に先を越されてしまった。
少しでも表現に携わる人間なら、「水伝」は無視出来ない問題として捉えるべきだろう。

「水伝」をきっかけに交流を持つようになったblog「Interdisciplinary」で気になったエントリーがあった。問題はそのリンク先なのだけど、若いときにはこういった考えを持って、何事にも反発したくなる気持ちも分からないではない。少なからず、僕にも経験があるし。
ただ、それで大きな損をしてきたのは確かだと思う。もっと素直であれば、遠回りをしなくても良い事が多々あっただろう。
読んでいて、ちょっと美術教育について考えるきっかけになったので書いてみる。
美術は作品を作るという体験をすることができる教科の一つである。得意な人間も不得意な人間も、一定数の時間に集中して自分の作ろうとするものと対峙しなくてはいけない。一朝一夕に答えが出るものではなく、多くの時間とエネルギーを要求される。結果がどうであれ、「完成させる」という経験を積む事が出来る希有な教科なのだと思う。
そんなとき、先達が残してきた作品を見る事で、自分の至らなさ、拙さを痛感し、先人の残してきたものに対して尊敬の念を持つ事が出来る。
受験をするという事だけを考えると、学科の履修というのは、受験にとって必要か不必要かという尺度ではかられがちになるだろう。しかし、それらの学科であっても、偉大な知の先達の存在があったからこそ、僕たちは知識として身につけることが出来るのである。
美術教育の要不要の議論になったとき、他の教科にも役立つ部分がある、という主張になりがちであるが、先達と自分との大きな差を実感する意味でも、意義のあるものではないだろうか。確実に謙虚になることができる。
スポーツにもそういった部分があるだろう。絶え間ない努力をしているアスリートにかなわない事を知るから、敬意を払う事が出来る。

しつこいと思いながらも、また「水伝」についてのエントリーを書いてしまった。
色々と示唆に富んだ教訓を含んでいる事象なのかもしれない。

投稿者 corvo : 01:36

2007年1月 5日

「美術教育の犠牲者」へのコメントについて

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長いですが、読んでいただけると幸いです。ついでにポチポチっとお願いします。


---
昨年9月26日にアップしたエントリー「美術教育の犠牲者」に、今年になってから久しぶりのコメントの書き込みがあった。ただ、内容については、どういった論点か分かりにくい事もあり、コメント上で質問をしているのだけど、答えていただけないようなので、エントリーであらためて取り上げてみようと思う。

この「lenny」と名乗るコメンターの方は、「美術教育の研究をしているものです。」と最初におっしゃっている。ここで一番気になるのは、その「研究」を大学などの機関で行っているのか、在野で個人的に行っているのか、それとも現場の教師なのか、分からない点である。コメントにも書いたが、是非この点については答えていただきたい。

ここにコメントの全文を引用します。
---
「私は美術教育の研究をしているものです。
この掲示板の内容は私の地区でもあてはまります。
生徒が犠牲者と考えるのは、美術で何を学ぶか分からずにただ制作をすることにあると思います。
よく評価はできないという話を聞きますが、評価のないものは
学校で教える必要がないのです。
スイミングスクール、書道教室、ピアノ教室のように個人的に通えばいいのです。
私は中学校美術科を中心に研究しています。
中学校では多くが学校独自でカリキュラムを組んで取り組んでいます。私はこれに大きな問題があると考えています。
同じ公立中学校なのに先生の当たり外れが大きい。
全国どこへいっても同じ美術教育をうけられなければならないと思います。
ある学校はスケッチに力を入れている。こっちの学校はデザインの色塗りに力を入れている。また別の学校では粘土で手をつくっている。これでは不平等が生まれるわけです。
また、逆のことも感じています。
私がここのところ強く不安を感じるのはこんな授業です。
「全員が靴のスケッチ」
「自然物の構成」「立体感のある平面構成」
なぜ?
この授業の生徒の評価を真摯に教師は受け止めているのでしょうか。
確かに教科書にはスケッチをする内容があります。
しかしこれは「全員」が靴をスケッチするという意味ではありません。あるテーマがあり、スケッチを通して学ぶことに教育があります。
「自然物の構成」「立体感のある平面構成」については日本のデザイン教育も考え方が分かれ長くなるのでまた機会があれば投稿します。

最後にある統計(文部科学省)で美術教師が「生徒が楽しんでいる」と感じていても実際生徒は「分かりづらい」と感じていることがわかりました。教師と生徒の意識の違いは一緒に統計をとった音楽よりもずっと多かったのです。
美術に限らず、教師の多くは落ちこぼれの経験がありません。また、政治家や大学教授も同様です。
多くの美術教師は美術が好きかよい美術教師に出会ったからだと思います。
全員が絵が上手になりたいと考えているわけではないのです。
今のままの美術教育感が教師の中にある限りは、将来は選択教科になり、また、なくなっていく教科になるでしょう。」
---引用ここまで

最初の質問以外に、僕が質問として上げているのは、次の事である。
1.美術の授業が、日本の学校からなくなっても良いとお考えなのでしょうか?
2.世界で、美術教育を完全に無くしてしまっている国はあるのでしょうか?
3.落ちこぼれを作らない描法として「酒井式」の存在がありますが、「酒井式」についてはどんな感想をお持ちでしょうか?

また、アイスストーンさんからも、次のような質問があがっている。
「経済的見地から、図画工作の授業はモノ作りの根幹であり、美術授業はモノに付加価値を与える重要な種

それに尽きると思うのですが…。

僕の勤めている会社ではモノを作るときに、デザイン事務所にそれなりのお金を払ってます。外観は商品を売るに重要な要因だからです。で、もし学校の授業から美術が除かれたら将来どうなると思います?僕は対価の割に質の低いデザインしか生まれて来なくなると思うんですが。スウェーデンの商品ってどう思います?そしてスウェーデンの美術教育の研究結果はどのようになってますか?素人の僕から見て、美術教育とモノの付加価値は同一線上にあるのですが。

>同じ公立中学校なのに先生の当たり外れが大きい。

これは単に学習指導要領に則らない教師の問題ですよね?
それを言ったら美術に限らず、あらゆる教科に該当するんですけど。大体、改善策を考えず「要らない」になる論理付けが全く理解できません。
また、中学で授業を受ける事によって美術に目覚めた人の話は研究結果には含まれてませんか?僕はそういった人達が先に挙げた経済的要因で貢献すると思うんですけど、そうは思いませんか?」

lennyさんは、「美術教育の研究」をされているということならば、現状の批判をするだけでなく、理想的な代案をお持ちなのではないだろうか。どんな物事でも、批判をするだけなら簡単であるし、何事も完璧であるということはありえない。
このblogで何度も書いているが、美術教育が学校教育の現場から消えてしまう事は、決してあってはならないことである。
芸術的リテラシー(教養)を失ってしまう事は、大きな社会的損失である。全ての人が芸術家になる訓練が必要だということではない。当然、絵を描いたり、彫刻を作ったりする技術に重点が置かれてしまっている授業内容には、問題のある部分も多いと思う。しかし、芸術を楽しむ心を育むことに、どんなデメリットがあるというのだろう。なんら美意識の感じられない空間の中で生活する事に、僕は耐えられない。
現在の美術教育に様々な問題があることは確かかもしれない。しかし、いつまでも批判だけしていたのでは、建設的な議論にはならない。
もし仮に美術教育がなくなっていくことが自然の流れだとして、その結果得られるメリットはあるのか、デメリットは何か。美術教育に変わるものはあるのか。
美術の授業をきっかけに、美術を嫌いになってしまう生徒がいることは、とても不幸な事ではあるが、それ以外の美術が好きな生徒が犠牲になってはいけない。
自分に何があっているか、何が好きなのか。そんな選択肢が沢山あることが、学校教育の大きな価値の一つではないだろうか。

投稿者 corvo : 02:35

2006年12月26日

視点・論点「まん延するニセ科学」

ちょっと遅ればせながらなのだけど、先週NHKで放送された視点・論点「まん延するニセ科学」(youtube版)を是非、多くの人に見てもらいたい。文字に起こされたものはこちらに。以前、このblogの「水伝」のエントリーにもコメントいただいた、大阪大学の菊池教授による「ニセ科学」に対する警鐘である。はっきりと明快に、「ニセ科学」が蔓延することに対する、危険性を語っている。これを見れ(読め)ば、「ニセ科学」に振り回されることが、我々にとって不利益をもたらし、決して良い結果を生まないことを理解することが出来るだろう。

しかし、残念ながらそう思わない人も、少なからず存在する。例えばここ(科学的根拠の科学的根拠?)なのだけど、コメントを読むと頭がくらくらしてくる。
転載しようかとも思ったのだけど、表記するのもちょっと気が引ける内容もあり、興味のある方はちょっと覗いてきてもらうのが良いと思う。コメントを書き込もうかとも思ったのだけど、かなり面倒なことになりそうな予感もあり、今のところ保留にしているところである。mixiの日記にコメントをしたら、アクセス禁止になった前科もあるしね。
しかし「目に見えるものだけを信じる人は底が浅い気がします。」とはよく言ったものである。目に見えるものだけを捉えるだけでも、どれほど大変なことか。例えば、目の前にある林檎を、少し見ただけでどれほど理解できると言うのだろうか。これを絵に描こうとすると、詳細な観察が必要になってくる。あらゆる角度から見て、時には触って、臭いをかいで、重さを感じて、目の前にある事象を捉えようとするだけでも、膨大な時間と集中力が必要である。「目に見えるものだけ」と言い切れるところに、逆に底の浅さがある。
目に見えるもの、既に分かっていることをきちんと理解するだけでも、相当に大変なことなのである。わざわざ、科学的根拠のないことを信じようとする暇はない、と思うのが正直な所である。

そんな暇のない人たちにも福音がもたらされた。前述の菊池教授が素晴らしいマシーンを発明していたのである。
大阪大、まん延するニセ科学を見分ける機器開発」。
また、菊池教授の生のやりとりをコメントで読めるのが、「わしの大発明(ニセ科学判別装置)を見るのじゃ 」である。
よもや、このblogの賢明な読者が本気にすることはないと思うが・・・。

一方、「ニセ科学」を信じる人の方が、はるかに狭量で、不寛容であると感じる。どうして、そんなに頑になってしまうのか。
「証拠写真こそ、根拠です。」って、写真のなかった時代の、科学的事実に根拠はないのだろうか。
今ならデジカメとフォトショップで、ねつ造し放題である。
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投稿者 corvo : 01:26

2006年11月27日

「水からの伝言」まとめ2

前回、『「水からの伝言」まとめ』としたのだけど、まだ消化不良の部分もあり、まとめと言えるほどのものではなかった。とはいえ、今回もまとめられる自信はない。そもそも、簡単にまとまるようなものではないのだけど、今回の一連の流れの中で、僕が最もショックだったのは、このblogの記事をきっかけに「水からの伝言(以下、水伝)」を道徳の授業に使ってみたいという教師が出てきてしまったことである。
これは予想外であった(”軟らか銀行”じゃないけど)。「水伝」を学校教材で使うことは絶対に避けるべきであるという、警鐘を鳴らす意図で書いたものだったのに、「どうすれば学校で使えるか」というアイデアまで出てきてしまった。
しかし、どうやっても使いようはないのである。

「傷つけるような言葉を止めさせればいじめも自殺もなくなる」ということは、一面的には言えるかもしれないが、必ずそうなるとは言えない。人間同士が関係を持って生きていく以上、傷つけ合わずに済むことは決してない。もし、そんなことはないと言う人がいるとしたら、それは摩擦を忌避して問題を先送りにしているだけである。もちろん傷つけ合わなければ、関係を築けないわけではないけど、人間関係の中には誤解や行き過ぎなどで、傷ついてしまうことは多々ある。そんな時、どうやって関係を修復するか。新たな関係を築くにはどうすればよいか。そこを考えていく方が教育上、重要な部分であると思う。そうやって困難な場面を解決することで、人としての経験値を上げていくのではないだろうか。

良い言葉(綺麗な言葉)、悪い言葉(汚い言葉)とはなんだろうか。「水伝」では良い言葉の代表として「ありがとう」、悪い言葉の代表として「ばかやろう」を上げているが、単語だけ見てそれを定義づけることは不可能である。
単語に良い、悪いも、綺麗、汚いもない。これは色についても言える。
今、僕が描いている復元画で使用している色は、ほとんどが土性系の顔料をもとにしている。平たく言えば茶系である。制作中のエントリーの画像を見てもらうと分かるのだけど、単色やパレット上の混色された絵の具は、単独で見るとあまり綺麗とは言えない色だろう。毎朝見る、うんこの色とそう変わらないかもしれない。
しかし、これがひとたび絵の中に配置されると、それぞれの色が意味を帯びて、絵画空間を形成していくことになる。文章もまったく同じである。言葉を単独で選んで、それが綺麗だの汚いだの決めることは、決して出来ないのである。もし、決められると言うなら、それは極めて傲慢な考え方だ。
言葉をそんな風に定義してしまう「水伝」が、道徳教育に適しているはずがない。物語としても、まったく破綻してしまっている。
言葉遣いが悪いから駄目な子だ、言葉遣いがいいから良い子だ、これってものすごく乱暴な考え方ではないだろうか。少々口が悪くても、立派な人格で愛すべき人物は、少なからずいる。僕が昔からお世話になっている宮大工の棟梁が、まさにそんな人である。よく何度も「ばっかやろう」と言われたものだ。
僕の体内の水は、そうとう駄目になっているな。

今回の一件で出会った「水伝」関係のサイトをまとめて上げておこうと思う。
科学的な側面からのサジェスチョン。
「水からの伝言」を信じないでください
kikulog
水商売ウォッチング

学校でお子さんが授業を受けてきて、その対応に苦労された方の手記。
水は答えを知りません

さらに深みにはまりたい方はこちらへ
「水からの伝言」関連リンク集-選定版

僕のエントリーをきっかけに、友人が書いたblogのエントリー
『水からの伝言』の是非(芸術的イエローカード)

いじめ問題に対するひとつの解答
孟母三遷(しましまえんで)
緊急提言!いじめ対策への新しい視点(芸術的イエローカード)

これらを読んでも、まだ授業で使いたいという教師はいるのだろうか。
こんなblogのように、学校不要論や教師不要論を声だかに叫ぶ人間も出てきていて、それも致し方ないかなと思えるような現状なのかもしれないが、教育とは国家にとって最も重要なものであり、学校や教師が子供たちの教育に大きな役割を担っていることは間違いない。
だからお願いです。「水伝」を授業で使わないでください。アンクルディノさん、絶対に駄目です。

前回のアイスストーンさんのコメントで面白いものがあったので、ビジュアル化してみました。
『善悪の区別とレッテル貼りは違います。今回の件は音楽に限定されているようですが、偏狭な知識で職業や人格に貴賎や差別を作るような教育が氾濫してない事を祈ります。例えば「骨とかカラスとか黒猫とか好きな人は黒魔術をやっているに違いないから近づくな」とか(corvoさんオチに使ってスミマセン:笑)』
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骨がたまらなく好きで、いくつかコレクションしており、
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カラスはこのblogやスタジオの名前にするほど敬愛しており(この剥製は死体を拾ってきて作ってもらったもの)、
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黒猫が飼いたくてわざわざネットの里親募集で探し、毎日地下室で制作している怪しい人間です。
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毎日遅くなってしまってます。もう寝ます。応援よろしくお願いします。

投稿者 corvo : 03:45

2006年11月24日

「水からの伝言」まとめ

前回の『「水からの伝言」って何だ』には、たくさんのコメントをいただきありがとうございました。初めての方とも意見を交換することができ有意義なやりとりが出来たと思います。
今回、タイトルに「まとめ」と書きましたが、多分うまくまとまらないと思います。始めから言い訳しておきます。今の僕にとって切羽詰まった問題ではないという側面が大きいのですが、少なからず科学と教育に関わっているものとして、無視出来ないことだと感じたのは確かです。

最初、川端さんのblogで「水からの伝言」の存在を知り、田崎先生の「水からの伝言」を信じないでくださいを読んだことで、批判的な視点が入り口ではあったのですが、どこをどう好意的に解釈しても僕にはデタラメとしか判断できません。
「水からの伝言」が問題であることは明白なのですが、それ以上に根の深い問題として、学校の教育の現場で紹介され道徳の授業にまで使われた実績があるということです。
実際に授業で使われたものかどうかは不明ですが、道徳学習指導案なるものがネット上にあります。これを見て驚いたのは、前回のエントリーにコメントをしてくれたアンクルディノさんの提案とほぼ一致しているということです。コメントでも書きましたが、僕は絶対に教育現場で道徳の授業であろうとも、教材として使ってはいけないと思います。今、小中学校の教育現場が置かれている背景に、根の深い共通項があるのでしょうか、「自殺」「いじめ」などがキーワードになると思いますが、多くの方が指摘しているように「水からの伝言」は「いじめ」を助長することはあっても、なくす効果は一切ありません。
人間の精神活動を「水」の判断に委ねることに、大きな疑問を感じます。ここは「惑星ソラリス」ではないのです。
美しい音楽を聞かせると、美しい結晶ができるという主張もあるようですが、日常的に極めて汚い言葉を使っていたモーツアルトの音楽での効果は、いかほどのものなのでしょうか。その音楽が美しいかどうかの判断は、人それぞれで分かれます。前回も書きましたが、美術にも音楽にも、絶対的な美の価値は存在しません。美術も音楽も、人間の精神活動が生み出したものであり、コミュニケーションの道具の一つだと考えることができます。水に美しい音楽を聴かせて、美しい結晶が出来たと主張する人たちは、自分が美しいと思っている音楽を押し付けているにすぎないのです。
今、名曲と呼ばれクラシックとして位置づけられる曲たちも、その時代の流行歌であったこともあれば、権力者の娯楽のためでもあったわけです。ヘビメタだって100年もすればクラシックです。

「水からの伝言」の主宰者は、これは科学ではなく「ポエム」であり「ファンタジー」だと主張しているようですが、そうであればもっと優れた「ポエム」も「ファンタジー」もたくさんあります。わざわざ、こんなものを選んで教材にする必要があるとは思えません。今回、色々と検索をしていて一番驚いたのは、「オノ・ヨーコからのクリスマス・メッセージ」です。これがいつ書かれたのか分かりませんが、なんとも言えない気持ちになります。「ファンタジー」で、もしこんな世界があったら素晴らしいだろう!って言うのなら分かります。そんな世界観を作品として表現するなら理解出来ます。しかし、「科学者が・・・・」と言ってしまっているのです。
「アート」は「ファンタジー」の中に存在するものではなく、「ファンタジー」が「アート」のひとつの要素にすぎないのです。
表現には自由があり、様々なアーティストが日々活動しています。そして、人類の長い歴史の中で築き上げられてきました。このオノ・ヨーコ氏の一文は、そんな人類の叡智の結晶を、一瞬にして葬り去ってしまうのではないかと思えてしまうのです。

田崎先生の文章への反論も見つけました。どうもその筋では、有名な方らしいです。はなはだ主観ですが、田崎先生の文章と比較すると、まったく美しくありません。レイアウトも稚拙で、イラストも酷い。このサイトは、ほぼ全ての記事が批判文だけで成り立っています。

ここまで書いてきましたが、うまくまとまりませんでした。時間も遅いので、後日もう一度チャレンジしてみたいと思います。
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投稿者 corvo : 02:00

2006年11月18日

「水からの伝言」って何だ

先日、小説家川端裕人さんのblogで「トンデモ科学ネタ、ふたつ」というエントリーがあった。日常的に訪れているblogで、何気なく読んでいたのだけど世の中には色々と不思議なことが多い。というか人間というのは実に不思議な生き物だと、あらためて思ったのである。
僕は幸いにも「水からの伝言」という本の存在を知らなかった。「不幸にも」知らなかったのではなく、「幸いにも」知らなかったのである。実際、この本を買ったり、借りてきたりしたわけではないので、批判的なことを書くことはフェアーではないのだけど、内容としては大雑把に次のようなものらしい。
「水に『ありがとう』などの『よい言葉』を見せると、きれいな結晶ができて、『ばかやろう』などの『わるい言葉』を見せると、きたない結晶ができる」というお話らしいのである。
そして、これに対して学習院大学の田崎晴明教授が『「水からの伝言」を信じないでください』というページをアップされていて、研究者として真摯に反論を述べられているのである。
僕も研究者と関わることの多い仕事をしているので、田崎教授の書かれた文章をすんなりと納得することが出来た。「水からの伝言」で主張されていることがいかに馬鹿げたことで、科学的に論外であることは、実際の本を手にするまでもなく明らかだろう。
僕が気になったのは、何をもってして「美しい」と判断しているのかいう点である。
何を「美しい」と感じるかということは、極めて個の問題であり、100人中100人が「美しい」と感動することはありえない。レオナルドの傑作「モナ・リザ」であっても、「気持ちが悪い顔だ」という感想を持つ人もいる。ただし、「モナ・リザ」を「美しい」と思えないから悪いということではなく、それほどに「美しい」と思うことは「個」にゆだねられた部分であり、誰でもが客観的に判断出来るものではないのである。
「非常に形の整った美しい結晶」という表現ならば、まだ理解出来る。写真集に掲載された水の結晶の写真は、とても美しいのかもしれないが、著者の選んだ「美しさ」を提示されても納得することは出来ないだろう。
「ありがとう」がよい言葉で、「ばかやろう」が悪い言葉と定義することは、一見まっとうなように見えるが、皮肉を込めた「ありがとう」や、親しみの表現としての「ばかやろう」だってある。それを「水」はどう判断しているというのだろう。
この件については、ネットでも様々な意見を読むことが出来る。ただし、ものすごく時間を浪費することは確かである。
とにかく田崎教授の一文を読んでみてください。科学というもののあり方を、真摯に見つめるきっかけになると思います。
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投稿者 corvo : 02:38

2006年11月11日

個人レッスン

すでに土曜日だというのに、木曜日の話題。
実は、2年前から近所の子供に絵を教えている。まあ、教えるなんて言えるようなことは何もしていないのだけど、2週間に1回のレッスンに熱心に通ってくれている。現在小学校6年生なのだけど、時間通りにやってきて90分間黙々と描いて帰るという感じである。無駄話をすることもなければ、ふざけることもなく、ただただ手を動かして帰っていく。その時、僕は何をしているかというと、自分の仕事をしていたり、コンピュータで作業していたりと、あまりいつもと変わらない日常を過ごしている。そう、ほとんど何も教えていないのである。
ただ、写生することを基本にしているというか、それ以外のことは何もしていない。うちにあるモチーフ、骨だったり、剥製だったり、貝殻だったり、とにかくこれらを、ひたすらよく見て描くことばかりだ。それを嫌がることもなく、本当に黙々と描くのである。90分ほとんど休憩もとらずに描いているので、それだけでも大したものだと思う。後でお母さんに聞くと、家ではぐったりしているらしいのだけど、それだけ集中している証拠だろう。
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制作環境はこんな感じ。
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今、描いているモチーフはこれで、人間の左腕の骨格模型である。
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出来上がったデッサン。ワトソン紙に鉛筆。まず骨格を描き、その後骨格の輪郭だけ描いて、イメージを重ねるように自分の手を見てデッサンしてもらった。
最初、手を描こうとしたときはさすがに難しかったのか、なかなか形を捉えることが出来なかったのだけど、骨格に重ねるように描くことで落ち着いて観察することが出来たようだ。
こういった方法を、どこまでおもしろがってくれているのか分からないのだけど、嫌な顔一つせず熱心に描いている。
彼の個性に良く合っているのかもしれないが、描写力、デッサン力が確実に付いてきていることがよくわかる。
まだ小学生ということで、どういった進路に進むかは決めていないようだが、親御さんには「美術系に進むのは、大変だからやめたほうがいいですよ」と伝えてある。彼らも本人もその気はないようだし、もし美大に進みたいと言い出したら「まずは反対してください。それでもどうしても行くという意志を貫徹できないようなら、やめたほうがいいです。」とも伝えている。
絵を描くということは、他の分野にも活かすことができるので、彼の人生において良いきっかけの一つになればと思っている。
どういう方向に進むのか、近所に住む一人のおじさんとして見守っていこうと思う。
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投稿者 corvo : 23:56

2006年10月31日

集中講義当日

今日は朝6時に目覚まし二本立てでようやく起床。7時30分前には家を出て、東京駅へ向かう。新大阪行きののぞみに乗り、予定通り遅れることなく待ち合わせの駅に着く事が出来た。
今回、集中講義を行ったのは、滋賀県大津市にある成安造形大学である。この学校の教授である井上直久さんからの依頼で一日だけ講義を行うことになった。
滋賀には何度か来ているが、大津は初めて訪れる土地である。雄琴(おごと)という駅名も読めなかったほど、明るくない土地である。
講義は13時40分から。12時には大学に到着したので、井上さんと校内にあるカフェで昼食を食べる事にする。生徒の設計によるというカフェは、雰囲気があって食事も大変美味しかった。講義の打ち合わせもしながら、いろいろな話題で盛り上がる。余裕を持って1時前にはカフェを出て、講義室の準備をすることにしたのだけど、ここで大問題が発生。用意してきたスライドショーのファイルが開かないのである。昨日、あれほど苦労して作ったファイルをどうしても開く事ができない。フラッシュメモリーにコピーして、ノートのハードディスクに読み込んであったのだけど、どうやらフラッシュメモリーにコピーした時点で、ファイルの一部が壊れていたらしい。さて、困った。復元画についてのファイルは、以前に講義で使用したものがハードディスクに入っていたので、なんとか修正を加えて講義に間に合わせる事ができた(完璧ではなかったけど)。
問題はアルゼンチンとSVPの様子をまとめたものだ。画像はあるが、とてもスライドショーをまとめるには時間がない。アルゼンチンのスライドは短縮したものを即席で作り、SVPはインターネットにつないでこのblogでアップした記事を紹介することで事なきを得た。いやあ、焦った焦った。ちゃんとノート上で動作確認をしておかなかった、僕のミスである。これから気をつけなくては。
子供向けの講演とは違い、言葉も選ぶ必要がないので、比較的楽に話をすることができる。イラストレーションのクラスであることを忘れていて、油絵の基本的なテクニックについての話をはしょってしまったり、レオナルドの解剖図の説明をしなかったのは失敗だったが、絵に携わる人間であればレオナルドの解剖図のことぐらい分かっておいてほしいところである(後で聞いたところ、半分ぐらいの生徒は分かっていなかったらしい。基本中の基本だろうに)。
後で、質問カードを集めたのだけど、明らかにちゃんと話を聞いていなかった生徒がいて微笑ましい。「オーストリアでの食事は肉ばかりだったということですが、日本食は食べたくなりませんでしたか?」といった感じだったのだけど、アルゼンチンには行ったけどオーストリアは学生の時以来行ってないし、一言も言葉に出していないぞ。南半球ということでオーストラリアの間違いか?僕も学生時代、講義中はよく寝ていたので、人の事は言えないのである。
作品も何点か事前に送ってあったので、興味をもってもらえたのではないだろうか。講義の様子や作品の展示など写真に撮るのを忘れてしまった。
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講義が終わった後の講義室の様子。非常に設備が充実している。
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校舎外観。建物の配置が迷路のようで、ちょっと迷う。
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グラウンド。遠景に琵琶湖を臨む。
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これがランチを食べたカフェ。夕方、少しここでお茶をしながらおしゃべり。
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その後、学校を出て井上さんや他の先生方とともに、琵琶湖の近くのホテルへ食事に出かけた。37階の高さから眺める大津の夜景は美しい。
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これが今泊まっているホテルの部屋。狭いがネットも早くて、なかなか快適である。しかし、ユニットバスにはいつまでたってもなれない。こんな不便なシステムはないと思うのだけど。

明日は近くを少し観光してから、東京へ戻ります。
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投稿者 corvo : 23:50

2006年9月26日

美術教育の犠牲者

インターネットという空間ではポジティブであってもネガティブであっても、自分が思いもよらなかったり考えもしなかった意見を目にすることが時々ある。僕にとって非常に興味深いことや、胸元を掻き回されるような、色々なことがないまぜになって無造作に公開されている。
今日、以前から美術教育関連でお世話になっている山崎先生の管理する掲示板になかなかショッキングな書き込みがあった。僕も書き込んでおり、ディテールについては掲示板を読んでもらったほうがよいので、ここでは細々したことは省きます。

何故、このことを取り上げたかというと、自分自身が「美術教育の犠牲者」であると思っている方は、どれぐらいいるのだろうかということを知りたいからです。僕自身、美術教育の端っこのほうで関わっている者として、非常に興味深いです。
僕は美術教育によって救われたという思いが強いです。地方の進学高校に進みましたが、数学に力を入れていた母校では完全に落ちこぼれました。普通大学への進学からドロップアウトした僕は、教師から見ればお荷物でしかない、そんな存在だったと思います。特に数学のできない人間は肩身の狭い思いをしていました。そんなこともあって、数学への興味を失い、努力もしなかったので、出来るようになるわけがなかったのです。
でも、今では自分の勉強が足らなかったことを後悔し、分からないなりに数学への興味を持っています。
そんな僕にとって「自分は美術教育の犠牲者だ」と言い切れる人物がどんなことを考えているのか、興味があるのです。
しかもこの方は、自分の子供にも絵は描くなと教えているらしいです。自分と同じ苦しみを味わせたくないという理由からだということです。
このblogには、お子さんを持つ親御さんも多数来ていただいていると思います。
気軽にご意見をコメントしていただければと思います。
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投稿者 corvo : 03:40

2006年9月 9日

漢字が読めない?

ちょっとアルゼンチンの話題から離れて。
夜、テレビを見ていると「ブロードキャスター」で、若者の漢字離れを話題にしていた。僕自身、お世辞にも漢字に強いとはいえないし、書き取りに関してはまったくいばれたものではない。このblogを書く時もしょっちゅう辞書を引いて確認している。
しかし、今の現状はどうしようもなく酷いらしい。今、非常勤講師をしている高校では、そんな印象をもったことはないので実感したことはないのだけど、報道されていた若者たちの読めなさ加減は、とにかくどうしようもなく酷かった。
これを「言葉は生き物」とか「言葉は変化していくもの」と放置しておくのには、大きな問題があるだろう。映画の字幕もルビをふったり、難しい言い回しを避けるなど、苦労が絶えないということである。
僕自身はわざわざ漢字が読めない人間に対して、分かるように書こうとは思わない。文章をシンプルに、分かりやすくということは心がけているが、そこまでして伝えるべき部分の精度を下げるつもりはない。
これだけ漢字が読めなかったり、読解力がない人間が増えると、権力者にとってはますます管理しやすくなるだろう。
身近にそんなに漢字が読めない人間がいないので実感できないのだけど、テレビで報道していたほど酷いのだろうか。ちゃんと読める若者も出してほしかったなあ。(読めない中年男性も出ていたけど)
「牛耳る」「養蚕」「徹頭徹尾」などが、全然読めていませんでした。読めないということは、意味すらも分かっていないのだろう。
ちょっと気になったので、書いてみました。
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投稿者 corvo : 22:49

2006年8月 2日

教育フォーラム2006

先日、女子美術大学が主催する「教育フォーラム2006」に参加してきた。
場所は代々木にある”国立オリンピック記念青少年総合センター”。これがなかなか綺麗で大きな施設。代々木公園内に、こんな場所があったことを全然知らなかった。
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全国から美術教師が集まる場に参加したのはこれが初めてである。週一回の非常勤講師しかしていない身としては、少々場違いな気分でもあった。それでも、実際に現場で日々頑張っておられる、先生方の生の声を聞くことが出来る貴重な場であった。実は主たる目的が一つあって、昨年の秋からネットを通じて交流していた、北海道の山崎正明先生に会うことだった。山崎先生はblog「美術と自然と教育と」をの管理者で、僕が高校の授業での出来事を書いたことがきっかけで、blogやメールを通して頻繁にやりとりすることになったのである。
そんなものだから、初めて会った感じがなく、すぐに会話を弾ませることができた。エネルギッシュで、生きる力にあふれている、初対面の印象はそんな感じである。実に人間的に魅力のある方。自分の欲望(良い意味の)を素直に表現できる人は安心できる。
フォーラムの内容に関しては、僕にはまとめる力も評価するほどの見識もないので、山崎先生のblogに期待したいと思います。フォーラム後も、山崎先生を交えて数名の参加者とともに新宿まで飲みにいって、とても楽しいひと時でした。
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ランチを食べたレストランの窓からの景色。なかなか贅沢な施設である。
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順位にこだわりなくなってきました。でも、応援よろしくお願いします。

投稿者 corvo : 23:23

2006年7月 6日

小学校で課外授業3

昨日は、NHK恐竜キャラバンの仕事のため、千葉市の小学校で課外授業。午前中の授業時間ということで、朝早くに家を出る。始める前まで、今ひとつ頭の活動が鈍かった。
前回の野田市の時とちがい、今回は小学6年生2クラスへの授業だったので、非常にやりやすかった。少々難しい言葉でも反応してくれるし、60人ちょっとという人数で部屋の大きさもちょうど良く、持ってきた骨格などがよく見える距離だったので、集中力も持続してしっかり話を聞いてくれたようだった。
基本はスライドショーなのだけど、実物の頭骨にはとても興味を示してくれる。いつもと同じように、持っていったのは猫と犬と鰐なのだが、猫と犬はペットとして飼っている子供たちも多く身近に感じられということ、鰐は大型のは虫類の仲間ということが、選んだ理由である。必ず最初に、「何の骨かわかる?」という質問をするのだけど、もっとも正答率が高いのが鰐で、低いのが猫である。これには理由があって、ほ乳類の場合は表情筋が豊かなため、骨と実際の顔がなかなか結びつきにくい。また、特徴的な大きな耳(外耳)がないことも、判断を難しくしている。一方の鰐は表情筋がなく、皮膚をかぶせた状態と骨の状態で、形態にほとんど違いがないため、初めて見る子供たちでも即座に分かるようだ。
この点は復元をする上でも重要な事柄である。
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持ってきた骨コレクションと本の紹介。MacBookも活躍してます。
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今回も原画を展示。
小学生に話す時には、興味を持続してもらう必要もあるし、より噛み砕いて説明しなくてはいけない。僕自身がよく理解していないと、きちんと伝えることができない。これは、とても勉強になる。自分にしか分かっていないことを、どうやって他人に伝えるかということは、全ての表現活動に通じる基本である。ここでは「分かっているでしょ?」は通用しない。
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今日も授業が終わった後、恒例のモリーが登場。ここでも人気者。雨が降っていく分涼しかったのだけど、いつも「中身の人(いないことになっているのだけど)」は大変なことになっている。背中にアイスノンを大量に貼って、しのいでいるらしい。
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最後には握手会も。
授業の後には昼食に給食をいただいた。もう何年ぶりだろう。小学生のとき以来である。素朴な味でたいへんおいしかったです。写真を撮り忘れたのが残念。

先日、ある有名オーナーシェフが、従業員に電話を投げつけ怪我をさせ、傷害罪として訴えられたというニュースがあった。このシェフは子供たちの味覚を鍛えることを目的とした、「食育」という活動を行っており、テレビなどで子供たちに笑顔で接する姿を何度か見たことがある。子供たちに伝えられる言葉を持ちながら、どうして暴力に走ってしまったのか。
実際に経験していないので推測の域を出ないが、料理人の世界の上下関係の厳しさや、体罰が当たり前とされる職場環境が原因としてあるのかもしれない。よほど腹に据えかねての行動だったのいか、単に虫の居所が悪かったのか。原因は仕事が遅いことだったらしいのだけど、当たり前の行動としての暴力なのか、特別なことなのか、僕には判断がつきかねる。
職人の世界では、よく「技を盗む」という表現をするが、僕にはちょっとピンとこない。人から教えられなくても、盗むぐらいの意欲がなければ駄目だという考えは分かる。でも、教えたとして困ることってあるのだろうか。教えた上で、さらに盗むぐらいの意欲があれば、その人間のスキルは飛躍的に向上するのではないだろうか。甘いのかな。やはり「秘伝」でなくてはいけない理由があるのかな。もし、プロの料理人で読んでいる方がいたら、コメントお願いします。
僕はこのblogで制作に関わる情報をかなりオープンにしている。もちろん100%を伝えることは不可能だし、業務上の守秘義務もあるの、全てを書いているわけではない。でも、技術的なことや方法論に関しては、まったくといっていいほど秘密にすることはない。使いこなせるかどうかは、別の問題だからだ。
アカデミズムを権威主義として批判することがあるが、アカデミズムの真の良さは、すべての情報がすべての人に平等にオープンにされていることだ(言語の問題はもちろんあるが)。意欲があれば誰でも学び、吸収することができる。
これからも、質問があればどんどんコメントしてください。出来る限り、答えていきたいと思います。
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ちょっと更新が遅れがちですが、応援よろしくお願いします。

投稿者 corvo : 14:02

2006年6月13日

小学校で課外授業2

今日は午後から、先週に引き続き千葉県内の小学校で課外授業。野田市まで行ってきた。基本的には前回と同じ内容で、実作品と骨コレクションを見せながら、スライドショーで進めていった。
今回の小学校は前回の市川と違い、とてものどかな場所にある。
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途中、コンビにに寄ったところツバメの巣を発見。雛がお腹を空かせてひっきりなしに親を呼んでいる。
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先週は音楽室で約100名の児童(5年生と6年生)を相手に話をしたのだけど、今度は全校生徒200名以上に対して話をしなくはいけなかった。1年生から6年生まで全学年なので、理解力にも差ができてしまうのだけど、結果的には低学年の子供たちのほうが熱心に集中して聞いてくれていたようだった。高学年の子供たちは、昨日のサッカー観戦で寝不足だったのかもしれない。
とにもかくにも無事終了。今日もモリーが登場しました。マスコットは人気があるね。
僕が持っていった骨コレクションたちを怖がることなく、興味を持って見てくれたことは嬉しかったです。
今日の授業も、世界の巨大恐竜博2006の広報活動の一環です。残念ながら、この展覧会には僕は全然関わっていないです。
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明日から3日間、中国出張です。時間があれば、ホテルからアップします。応援よろしくお願いします。

投稿者 corvo : 20:44

2006年6月 6日

小学校で課外授業

今日は午後から市川市の小学校で課外授業。NHKの千葉放送局が主催する「NHK小学校恐竜キャラバン」という企画で、世界の巨大恐竜博2006の宣伝広報活動の一環も兼ねた、小学生向けの講座である。専門家による講座ということで、千葉県立中央博物館の研究者が各校をまわるということだったのだけど、とても希望校全てには行けないということで、僕のところへも話が来たのである。
45分という短い時間の中で、復元画について話をしたのだけど、参加してくれた小学生たちの集中力も素晴らしく、随分盛り上がった講座になって、楽しく終えることが出来た。復元は骨から始まるということを説明するために、僕の骨コレクションから、イヌ、ネコ、ワニの頭骨、人間の左腕のレプリカを持っていった。特にネコの頭骨の小ささは驚きだったようで、何だと思う?と聞いたところ、ネズミやハムスターと答える子供たちが多かった。初めて見るものなのだから間違えるのは当然なのだけど、イヌやワニについては、すぐに分かってくれる子供たちがたくさんいた。これが結構、大人のほうが分からないときが多い。子供たちは、素直に先入観なく、興味を持って見てくれるのか、形態に対する感受性がとても強い。これは、とても嬉しいことだった。また、骨を気味悪く感じるのではなく、自分たちや身の回りの生き物の命を、支えている大切なものだという意識を持ってくれたように感じた。
後は、パソコンで作ったスラオドショーを見てもらいながら、復元画の製作過程を解説していった。今日は3点、復元画の原画を持っていて会場に展示したので、スライドの中のプロセスをより実感してもらえたのかもしれない。
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写真の着ぐるみは、恐竜博のマスコットキャラクター「モリー」。僕の講座が終わった後で、NHKからの広報として恐竜博についてのお知らせをしているところ。手前のピアノに乗っているのが、僕の骨コレクション。
世界の巨大恐竜博2006は幕張メッセで、7月15日(土)から9月10日(日)まで。このblogで宣伝しているのだけど、僕はこの恐竜博には一切関わっていない。なので、恐竜博では僕の復元画は1点も見ることは出来ません。
でも、今日は小学生たちに話をすることで、とてもよい経験ができた。来週13日には、野田市の小学校で同じ講座を開きます。
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順位が下がり続けているのは、トップに本の紹介の記事があるからかな。

投稿者 corvo : 23:58

2005年11月30日

僕が受けた美術教育3

このタイトル、前回で終わりにしようと思ったのだけど、「大学のはなしを」というリクエストが多かったので、もう少し書いてみることにする。
そこで、まずは芸大受験について。
僕は大学受験を二度経験している。幸い一浪で合格出来たので二度なのだけど、文字通り二度しか受験をしたことがない。美術系大学は首都圏にいくつかの私立大学もあり、通常は複数の大学を受験する。しかし、そのためには受験料や合格したときに支払う入学金など、多額の費用が必要となってしまう。さらに私立の美大は、ものすごく授業料が高い。支払っていくには家庭がある程度裕福か、相当のバイトをしながらでないとやっていけない。
最初から志望校は芸大以外に考えていなかったので、それ以外の大学は一切受験しないということを決めていた。
親にも心配されたが(私大に通う授業料のほうがもっと心配かけるはずである)、受験料を出してくれる余裕があるなら画材代に全部回してくれとお願いした記憶がある。(これは浪人の時)
別に自信があったわけでなく、行きたいと思う大学以外に行きたくなかったという、単純な理由からである。
僕は絵画科油画専攻を受けたのだけど、定員60人のところへ2000人を超える受験生が集まる。芸大自体全学生を合わせても2000人ぐらいだと思うので、受験日は異常な人口密度になる。
現役の時は、完全にこの雰囲気に飲み込まれてしまった。受験をするという、覚悟がまったく足りなかったのだ。精神的に浮き足立ってしまっては、経験を積んできた浪人生に敵うわけがない。もっともその前に自分に負けてしまっているのであるが。
あえなく実技一次試験で不合格である。
僕の時の受験内容を簡単に説明すると、1月に共通一次試験。国語とプラス一教科でいいという、お馬鹿さんいらっしゃいと言わんばかりの楽さ加減である。次は実技試験だけである。まずデッサンの試験、素描1、素描2の2点を制作しなくてはならない。初日に素描1(4時間)、二日目と三日目に素描2(8時間)を行う。課題は毎年まちまち、担当教官によってがらりと傾向が変わる。
この実技一次試験に合格すると(ここで2000人が300人ぐらいになる)、実技二次試験で油彩を描くことになる。これは二日間(10時間)で一枚を仕上げる。これまた課題は毎年まちまち。
僕が受験生だったときの油(絵画科油画専攻の略)というのは、素材はなんでもありの野放し状態という時代であった。
素描はモノクロであればなんでもよし。ただし紙は支給された木炭紙を使用する。
油彩ともなると、油彩の画材だけでなく、アクリル絵の具、コラージュのための写真や色紙、果ては焦げ色を付けるための「ガスバーナー」なんていう飛び道具まで出現する(これは素描の試験だったかな)。当然、試験官からは注意が入る。(隙を狙って使っていたような・・・)
こんな調子なので受験のための荷物が膨大な量になる。段ボールに満載した画材を、おばちゃんの買い物御用達キャリアーにゴムバンドで縛り上げて、家と試験場を往復するのである。電車のなかで出会えば、臭いは汚いは殺気立ってるはで、まったく困った集団である。二度と経験したくないものである。
試験日の3月というと、まだ寒い時期である。試験場は暖房と受験の熱気で、かなり暑くなっている。試験場となる絵画棟は8階建てのビルで、試験当日はエレベーターの使用は禁止である。先ほど書いたくそ重たい荷物を、全て自力で運び上げなくていけない。低層階が試験場の受験生は多少ラッキーではあるが、あまり関係ないだろう。男性も女性も同じ経験をしなくてはならないので、自然と女性はたくましくなる。
僕が受験生の時は違ったのだけど、課題がヌードモデルだったいすると、室内の気温はさらに上がる。モデルが寒くない温度に設定しなくってはならないからだ。これが油彩の試験だと凄いことになる。テレピンなど揮発性の高い油を使用するため、室内にはものすごい臭いが充満するが、室温を下げないためにも、換気を最低限にとどめなくてはいけない。
そんな状況でも受験生は神経張りつめているので、もういけいけどんどん。一番最初にまいってしまうのが、モデルである。必ず何名か倒れてしまう。そうするとモデルを補充しなくてはいけなくなるのだけど、一部屋二部屋だけモデルが代わることは公正ではないということで、全ての部屋のモデルをスライドと補充で入れ替えてしまうので、午前と午後でモデルが代わってしまったり、一日目と二日目で代わってしまうこともある。
まったく体型の違うモデルになってしまうこともあり、受験生には柔軟な対応力が要求される。
僕が受験生だったときは、こういった感じであった。

たまたま僕が入学したのは平成元年だったのだけど、入学願書は64年度生ということになっていた。昭和天皇崩御により年号がかわっため、試験当日は元年度生のための受験となっていた。ちょうどこの時期、手塚治虫が亡くなったこともあり、非常に印象に残っている冬だった。
大学で一番楽しんだのはオペラの舞台美術であった。芸大は美術学部と音楽学部からなる大学である。僕が入学したとき、ちょうど「東京芸大オペラプロジェクト」が発足し、有志を募っていたのである。
卒業までに関わった演目は「ラ・ボエーム」「ポーギー&ベス」「コシ・ファン・トゥッテ」「蝶々夫人」「ドン・ジョバンニ」である。
こんなことをしていると、自然とそれ以外がおろそかになっていくのだけど、僕の場合は学科の成績の酷さに表れたかもしれない。ぎりぎり単位を落とさないところまでさぼり、ぎりぎりの成績で単位をとる。不真面目な学生であった。
学校にはよく泊まっていた。学内にシャワーの設備もあるので、洗面道具と着替えさえあれば、わりと快適に生活することができる。夜中でも食事できる店も周囲に多く、食事を済ませたあと塀を乗り越えて学校に帰るという生活が日常であった。特筆すべきことはこんなところである。また気が向いたら少し書くかも。

このころは恐竜にも古生物にも、まったく興味がなかった。僕が恐竜や古生物と出会うのは1996年。
上野にいながら、ほとんど国立科学博物館に行かない人間だったのである。
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投稿者 corvo : 00:33

2005年11月27日

僕が受けた美術教育2

昨日の続きである。
補足になるのだけど、僕が行っていた高校は県立の進学校で美術科はなかった。前回紹介した活動は、全て課外活動として行っていたものである。デッサンは朝授業前、昼休み、放課後と毎日描いていた。
美術部にはもう一つ大きな行事があり、それは毎年夏に行く合宿である。僕が育ったところは自然が豊かなところで、県内の漁村へスケッチ旅行に行くことが恒例となっていた。しかし、この合宿ががまたハードである。ほとんど体育会系の合宿と変わらないのではないかと思うほど。
この旅行にもOB、OGが積極的に参加してくれていた。展覧会の時以上に長い時間を一緒に過ごすため、話につきあってもらったり、相談にのってもらったりと、拙いながらも必死にコミュニケーションをとろうとしていたことを覚えている。僕がOBになったときは、逆の立場として在校生と関わることになるのだけど、どちらの経験も今の僕の血肉となっている。
合宿は3泊4日の日程で行われる。県内なので朝出発すれば、ちょうど昼食時に現地に到着する。この時の移動がまたきつい。在校生は20号から30号のキャンバスに、油絵の道具一式を抱えて動かなくてはならない。さらに着替えなども必要だ。こんな荷物を持った20人ほどの集団が、電車やバス、時には船をつかって現地に向かうので、移動だけでも一苦労である。
昼食後は現地を皆で散策し、モチーフを決めていく。何を描くか決まったところで、すぐに制作にはいる。夕食の時間まで目一杯制作し、食後には宿での講評会が待っている。各自が自分の画面について話し、皆で討論しながら先生や先輩の批評を受けるというスタイルである。ここでも言葉の選択や、コミュニケーションの訓練をすることとなる。
これが終わると何ポーズかクロッキーをして(モデルは持ち回り)、昼間の制作の続きを寝るまで続ける。就寝時間は毎日大体12時頃である。次の朝は6時には起床して制作に向かう。朝食をすませて制作。昼食をすませて制作、夕食の後には前日と同じスケジュール。こんな感じの合宿であった。
在校生として参加しても、OBとして参加してもハードなことにかわりはないが、素晴らしい経験であったことは確かだ。

随分、高校時代の話が長くなってしまった。
美術予備校には講習会だけ、高校在学中から通っていた。合宿の日程以外の夏休み、冬休み、春休みと片道2時間をかけて予備校の講習会に参加する。ここでは皆が美術系の大学への進学を志望しているため、美術部とはまったく違った緊張感があった。浪人生にもまじっての制作なので、勉強になることも多い。
現役での合格は叶わず、1年浪人することになるのだけど、このころの美術予備校はスパルタ式のきつい指導が一般的であったと思う。
浪人時代は東京に出てきて、六畳一間での一人暮らしから始まった。何もかもが初めての経験ばかりである。浪人ということはとても不安定な身分である。高校生でも、大学生でも、社会人でもない。頭の中に霧がかかったような、もやっとした気持ち悪さにずっと支配されているような気分である。合格できるかどうかという保障は何もない。
今となっては馬鹿馬鹿しいことだが、浅はかな考えと自分のもろさから、突発的に死にたい気分に襲われることも時々あった。
東京の予備校はスパルタ式にさらに拍車がかかったような指導で、受験生は徹底的に追い込まれる。僕のいたクラスではなかったが、描いていたデッサンを窓から投げられたり、殴られたり(制作中居眠りをしていたり、態度が悪かったりと、本人が悪い場合が多い)といったことが日常茶飯事であった。ここから逃げしたい思いで必死になったものである。こんなところが居心地良くなって多浪するなんて真っ平だと、かなり早い段階で心に誓ったのである。
予備校で学んだことというのは、僕にとっては受験テクニックの吸収であったと思う。むしろ予備校以外で学んだことが多かった時期かもしれない。東京にいるということは、地方とは比べ物にならない情報に触れることができる。インターネットのなかった当時は、特にそれが顕著であった。お金がないので、立ち読みをするぐらいが関の山なのだけど、画集を何時間でも見ていることができたのは本当に勉強になった。美術館にもすぐに行くことができる。あの時もっとお金があれば、といまでも思わないわけではないのだけど。

大学時代は教育という点では、ほとんど書くことがないのでこの辺で終わりにしたいと思う。
受験や進路などで質問のある方は、いつでも気軽にコメントで書き込むか、メールしてください。
経験したことしか話せませんが、少しは役に立てるかもしれません。
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ブログ村ではおかげさまで、美術ランキングと科学ランキングで1位になることができました。
どうもありがとうございます。これからも応援よろしくお願いします。

投稿者 corvo : 11:52

2005年11月26日

僕が受けた美術教育1

気が付くとエントリーが200を超えている。この怠け者がよくぞ続いたものだ。
これもこのblogを訪れてくれる方、コメントを書き込んでくださる方がいればこそ。感謝しております。

これまで美術教育についていくつかのエントリーを書いてきたのだけど、高校の非常勤講師として教える側からの視点であった。そこで自分自身がどのような教育を受けてきたのか振り返ってみたいと思う。
いきなり高校からの話にしてしまう。というのも美術という分野を初めて強く意識し、自分の進路として選択した時期だったからだ。
僕の住んでいた県では当時、群制というシステムが残っていた。地域別に1群、2群、3群とあり、それぞれに2つの高校が存在した。その2つの高校は全く別の県立高校なのだけど、試験を受けるときは1群を受験、2群を受験といった感じに「群」を受けるのである。どちらの高校に行くことになるかは、機械的に合格者を成績順に振り分けていくので、受験生の意志はまったく反映されない。
僕は志望通り「2群」に合格したのだけど、目指していた高校に進学することができなかった。これには相当にがっかりし、憤りを感じたのをよく覚えている。なぜ頑張って合格して、行きたい学校にいけないのだ!と。
そして、「行きたくない高校」に入学した僕は、自分の進路を決定づける美術教師に出会うのである。彼について詳しく書こうとすると長くなるので割愛するが、美術とは、芸術とは、絵画とは、そんな「いろは」を一からたたき込んでくれた恩師である。
美術部に入部(初めての文化部入部であった。それまでは体育会系)したのだけど、毎日やることはクロッキーと石膏デッサン。じつに伝統的な訓練である。木炭の芯の抜き方、削り方、姿勢、対象を見るということ、諸々の基本的なことを日々繰り返す。そんな制作の合間に美術準備室に呼ばれるのだけど、一年生の僕に向かって「ヨーゼフ・ボイス、知っとるか?君、この作品どう思う?」と時々聞かれるのである。教えてもらった作家は多岐にわたる。1年生の僕がそんな質問答えられるわけもなく、ほとんど黙るしかなかった。それでも辛抱強く、ひとつでも言葉を引き出そうと、話を続けてくれたのである。この時、言葉と言葉によるコミュニケーションの大切さを、強く意識することができたのだと思う。
また、美術部では先輩が後輩にデッサンの指導をすることが伝統になっており、未経験の人間にどうやって指導するかということを経験することができた。それも自分が何も知らないところから教えてもらった経験があったからできた事でもある。
もう一つこの美術部で特筆すべきことは、3年に1回(トリエンナーレ形式で)、OB、OG、在校生によるグループ展を県立美術館のギャラリーで企画、開催していたことだ。全ての運営は在校生に任されるため、企画、出品者への連絡、広報、パンフレットの作成、展示などをこなさなくてはならない。美術系に進んだ卒業生も多数出品するため、大学進学についての相談や作品へのアドバイスなど、とても収穫の多い展覧会であった。
こういった経験を高校時代に数多く積めたことが、その後の生き方に大きな影響を与えたことは確実である。
次回は美大受験、浪人時代について書いてみたいと思う。
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いつもありがとうございます。順位、かなり上がってきました。

投稿者 corvo : 23:16

2005年11月 9日

美術教育の現状2

ふたたび美術教育についてである。ここのところ頭の半分ぐらいが、こっちにいってしまっている。
真剣に考えていかなくてはならないことだし、将来的に自分の仕事にも影響を与えることであるのだが、少々時間を取られすぎている。
前回の美術教育の現状でも、多くのコメントをいただいた。やはり興味を持ってくれている人は多いと思う。
次の田中清代さんの言葉は心に響く。(コメントから抜粋)
「小学、中学などで美術教育が削減される可能性のお話、耳を疑いました。なぜなら、子どもたちは年齢が低ければ低いほど、絵や音楽を身近なものとして感じていると思うからです。日々漫画やゲームに触れ、イメージの世界に慣れ親しんでいる彼らを、美術から切り離すのは酷というか、ナンセンス!ではないですか。それに、義務教育以外の時間で絵を習ったりするのは、実費がかかるわけで、学ぶことの範囲を狭められることは権利の侵害であると思います。」
彼女は素晴らしい絵本の数々を出版していて、子供の身近にいるアーティストのひとりである。そんな彼女も僕も、つい最近まで時間数削減の危機が迫っていることを知らなかったのである。

掲示板「図画工作・美術教育の大切さを訴える」は、美術教育について前向きなアイデアを出していこうという趣旨のもと運営されており、どんなことでもどんな方でも書き込むことができるオープンな掲示板である。
しかし、残念なことに趣旨に反する書き込みがあり、困惑している状況である。書き込みの内容の是非、誰の書き込みかについては読んだ方の判断に任せるが、僕自身は非常に腹が立っている。
とにかく良い方向に盛り上げていってほしいと思う。
皆さんの書き込みをお待ちしています。(まるで運営者のようですが、僕は一参加者です)


投稿者 corvo : 01:16

2005年11月 4日

美術教育の現状

ここのところ美術教育について調べたり考えたりする時間が長い。
現在、美術を含む芸術教科は、時間数削減の方向に向かっているということである。高校では選択制になっている場合がほとんどだと思うが、小学校、中学校でもこの流れになってきているらしい。これは非常にまずいことだと思う。特に小学校、中学校では、幅広く多くの経験を積んだ方が良い。
表現活動を行うには、ある程度のまとまった時間が必要である。考えることもたくさんあるし、肉体を使った物理的に時間のかかる作業も多い。それを安易に時間数を削ってしまうと、中途半端なものになってしまう危険性が高くなる。
「〜式」のようにマニュアル化された手法が歓迎されるのは、こういった背景もあるのかもしれない。インスタントに素早く完成することが出来れば、子供にも親にもある程度の満足感は残るかもしれない。でも、それはあくまでも人の思考と認識に頼った結果でしかない。心の底から熱中し、感動することは出来ないだろう。まず、自分自身が感動していないものに、他人が感動するわけがない。これでは何も伝わらない。
絵を描くには自分が世界をどう認識しているかを知り、考える必要がある。このことは世界、自然がどんな仕組みや構造で出来ていて、その中で自分たちがどんな役割をもっているかを知るきっかけとなる。これは人間形成の上で重要なことではないだろうか。
先日、中学の美術教諭である山崎先生の主催するblog「図画工作・美術教育の大切さを訴える」へ自分の考えを簡単にまとめて投稿してみた。リンクからもちろん読めるのだけど、ここへも転載しようと思う。以下のような文面だ。
-----
職業としての芸術

今の日本の教育全般に欠けているものに、職業と経済があると思います。
人間が社会に出るためには職業を持ち仕事をすることが不可欠です。そして、経済が回っていきます。
その中で人々は生まれ、生活し、死んでいきます。
ここで言う仕事とは必ずしもお金を得るものだけでなく、主婦業やボランティアも含みます。(どちらの仕事も大きな生産性を持っています)
芸術に携わる職業もあります。絵を描いたり、楽器を演奏したり、詩を書いたりすることだけでなく、プロデュースをしたり、マネージメントをしたり、著作権の専門家になったり、様々に関わる方法があります。
芸術家であること、芸術に関わることは立派な職業であり仕事のひとつです。
それを教育の上でどれだけ説明できているでしょうか。また、他の職業についてはどうでしょうか。
手を動かして表現することは、頭でイメージしているだけではできません。
逆に手だけ良く動いても、頭にイメージが浮かんでなければ、何かを創造することはできません。
これだけでも、あらゆる分野に共通する普遍性のある部分ではないでしょうか。
物事を観察し、その本質を見抜く力をつけるには、芸術の鑑賞は非常に向いていると思います。
芸術というものは、天才たちだけが作り上げてきたものではなく、人間が長い時間をかけて少しずつ築き上げてきた叡智の結晶です。
全ての人間のために開かれた存在です。
この素晴らしいものに触れる経験をつみ取ることは、絶対にあってはならないことです。

(小田 隆(36歳、画家、イラストレータ、都内高校の美術科非常勤講師)
-----
このblogへは誰でも投稿することができる。現時点ではどうしても、現役教師の方の投稿が多くなっているが、教育の問題は、僕のように社会に出てフリーでやっている人間にも大きく関わってくる。
勉強が良くできて、テストの点数もいいけど、まったく芸術に関心が無く、ほとんど芸術表現の経験のない人間が社会に出てくることを想像してほしい。クライアントの組織がこんな人間ばかりで構成されているとしたら・・・・。現状でも、これに似たようなことはあるかもしれないが。とにかく僕はぞっとする。

高校の美術教師、中村シキカツさんの「美術教育の行方」も大変興味深く、意義のある考えであると思う。興味のある方は是非、読んでみてください。

このblogがなかったら、美術教育に関してこんなに真剣に考えることはなかっただろう。
これから将来に向かって考えていかなくてはならない課題の一つであると、いまでは思っている。

投稿者 corvo : 23:09

2005年10月28日

美術の授業3

二週間ぶりに非常勤講師の日。
先週はアメリカに行っていたこともあるのだけど、中間試験期間で授業も休みであった。
授業内容についてblogで書いたところ多くの反響があり、自分でもいろいろと考え調べるきっかけとなった。
とくに衝撃的だったのが「酒井式描画指導法」の存在である。主に就学前の子供や小学生に絵の描き方を事細かに指導して、完成度の高い画面を作ることを目的にしている指導法である。「酒井式描画指導法」には賛否両論あり、Googleで検索しただけでも9370件がヒットする。なので興味のある方は、自分の判断で調べてみてほしいと思う。
また、このことがきっかけで色々な方と知り合うことができた。
北海道の中学教諭、山崎先生の美術と自然と教育と
アーティスト中村シキカツさんのシキカツ近況
この方も北海道の美術教諭、岩田先生の子供との笑顔〜美術教育の日々〜
酒井式に対して批判的であるという点からいうと、偏った紹介であるかもしれないが、これらのblogを見なくては全く知らないままで過ぎてしまうことであった。
僕も非常に問題のある指導法であると思っている。
描画法が精緻にマニュアル化されているため、誰が描いても同じような描写、構図になってしまう。しかもこの描法で描かれた絵が、多くのコンクールで優秀な成績を収めているらしい。こういった事実に親は喜び、満足をしているという側面もあるようだ。それほど皆、絵が上手くなりたいと思っているのか疑問である。もっと他の選択肢があるだろう。野球やサッカーがうまくなりたいとか、語学が得意になりたいとか、料理がうまくなりたいとか・・・・それぞれの特性にあった得意分野が見つかるのではないだろうか。また、見つけていくことが大切ではないだろうか。
この酒井式のなかで僕がぎょっとしたのが、顔を鼻から描くという指導をしているということである。
もちろん僕はこのやり方を踏襲しているわけではない。一つの方法であって、強制されるべきものではない。それでも、僕にとっては描きやすい方法であることに違いはない。

このblogのエントリー美術の授業で、多くのコメントを書いていただいたのだけど、このことについて一言述べておきたい。
色々な意見があり、言葉を交わすことで僕自身も考えるきっかけができ、非常に良かったと思っている。しかし、残念ながら議論と呼べないような書き込みがあったことも事実である。ハンドルネーム「けい」と名乗る方の書き込みは、最初問題提起として貴重であると思ったし、自分自身のやり方を再考してみるきっかけともなった。このことについては感謝している。しかし、二回目の書き込みでは反論に対して答えることなく、実際に僕の授業を受けていた「RENA」さんに対して非常に失礼な返答であったと思う。そして、僕と「RENA」さんが「けい」さんに対して質問を出したのに、それについては何ら答えてもらってはいない。最初に書き込むまで二日も悩んだという思慮深い方のようなので、二週間ほど待ってみたのだけど、いまだなしのつぶてである。
「けい」さんはサイトblogも開設されている。匿名で書き込みだけしていく、荒らしのような存在とは違うと思っている。
ただし、今回の顛末を見る限り、大変無礼で失礼な方であると判断することしかできない。
まずは、コメント欄の質問に対してきちんと答えていただきたいと思っている。

コミュニケーションをとることを拒否し、その不完全さゆえに投げやりな態度をとる人間に、アートについて語る資格はないと僕は思う。彼(性別が分からないので便宜上)の書いたコメントにも、彼のblogの意見にも、僕はほとんど賛成することはできないが、全く反論がないのでは議論のしようもない。
もし意見があるならば、コメントはいつでも歓迎です。

投稿者 corvo : 23:07

2005年10月15日

美術の授業2

昨日も週一の非常勤講師の日であった。
コメントで「堅苦しい授業」という指摘があった(実際に僕の授業を受けたり、見学したことのない人からであるが)。
実際の授業は「好きな物を自由に描く」というカリキュラムではない。そういった点が「堅苦しく」感じるのかもしれない。
毎回最初に行うクロッキーでは、人体の構造を観察し理解して、良い構図で素早い線でスケッチすることを目的としている。必要とあれば、人体の骨格図のコピーを生徒に配ることもある。
これを4月から3月まで毎週の授業で行うので1年間でおよそ30枚ぐらいを制作することになる。また、持ち回りで生徒がモデルを務めるので、人間の身体の姿勢や、見られることに対する意識を持つことにもなる。
長期にわたるカリキュラムは大まかに分けて2つ。1年かけて2枚の作品を制作することが目標である。
前期の授業では鉛筆デッサンを制作し、後期の授業では鉛筆デッサンをもとに油絵を制作する。
油絵のセットの絵の具の色は特別にセットしてもらっており、大体ルネッサンスの時代に存在した色になっている。絵の具の顔料は産業革命以降、劇的に増える。技術革新によって、それまで絵の具に出来なかった鉱物を顔料化することに成功したり、化学合成してそれまでになかった色彩を持った顔料が発明されたりもした。絵の具のチューブが製品化されるのもこの頃である。
古典技法を利用して描こうとすると、不自由なことも多い。鮮やかな黄色や真っ赤な色がないのである。しかし、色彩は相対的なものなので画面のなかでの組み合わせで、黄色や赤を表現することも可能になる。
僕が授業で重視しているのはプレゼンテーション能力だ。プレゼンテーションとは、提示、提出、発表、説明などと訳される言葉である。大事なのは制作する前に各個人がどういった作品にしたいかをまず思い描き、その目標に向かって行くにはどういった方法があるかを考えることである。当然、それぞれに得手不得手もあるし、完全に完成した状態をイメージできるわけではない。そのため生徒の相談を受けながら、それぞれにあったアドバイスをしていくことになる。
頭の中でイメージしたことを画面に定着していくのは、とても難しいことであるし、なかなか上手くいくものでもない。思い入れたっぷりにイメージを言葉で伝えられても、それが画面に表現されていなければ評価することはできない。
どうすればイメージを具現化することができるかを、生徒それぞれの技術や思考と相談しながら解決策を練っていくのである。
どんどん自分から進めていく生徒は、自分のペースで描いていけばいい。
絵画はひとたび展示されると、いろいろな人の眼に触れることになる。全ての人に作者の思考やイメージが伝わるわけではないが、伝える努力は最大限すべきであろう。僕と生徒だけが理解し共有しているだけでは、何も人に伝えることは出来ない。そこで、客観的な視点で自分の画面を見つめ、判断する必要もある。そういったことも授業の中で定期的に話している。
自分の中にしかないイメージや思考を、どうすれば人に伝えることができるのか。美術の授業を通して、考え知ってもらうことがとても大切なのだと思う。
僕は生徒たちに画家やイラストレーターなどになってもらうように授業をしているわけではない。
美術の授業を通して経験したことを、他の学科や将来の仕事、生活に活かしていって欲しいと思っている。


投稿者 corvo : 11:42