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2007年8月27日

『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』

 以前に少し紹介したままになっていた本である。何週間か前に読了していたのだけど、なかなか時間がとれずこんなタイミングになってしまった。率直に言って、とてもおすすめな本である。350ページを超える分量があるが、どんどん先を読みたくなり、時間さえ許せば一気に読んでしまいたいほどだった。訳者もあとがきで『最終章を読み終えたときには「もう終わってしまうなんて、もっと読みたいのに」と思った』と告白している。この感想は実に的を得ている。
そう、これは「ジョン・ハンター」という不世出の外科医であり、類いまれな奇人を描いた伝記である。作者はイギリスの女性ジャーナリストである。おそらく膨大な資料にあたり、それらを丹念に紐解いていったのであろうことは、容易に想像がつく。ドラマチックに描かれているわけではないのだけど、ハンターの持つエピソードの凄さと、奇異さに、筆がどんどん引っ張られていくような印象がある。それほどに、興味深いエピソードが目白押しである。
 18世紀の医学は近代的とは言いがたく、いまだにギリシャ時代の考え方が踏襲されており、麻酔もなければ消毒という概念もなかった時代である。また、外科医は一段下に置かれた、手を汚す職業であり、内科医に比べて権威も社会的地位も低かった。そんな時代に突如現れ、解剖を繰り返す事で人体の仕組み、神秘を解き明かそうとしたのが、ジョン・ハンターだ。兄が医者であったとはいえ、幼少のときは勉強が嫌いで、野山を駆け回り自然を観察することが大好きだったハンター少年。やがて兄の仕事を手伝うことになり、その観察力によって培われた、自然物に対する類いまれな探究心が花開くことになる。
 兄からある種押し付けられるように、汚れ仕事である「解剖」を行う事になるのだけど、ハンターはこの作業に瞬く間にのめり込んでいく。手先も器用で手際も良く、標本作りの才にも長けていた。ここで面白いのが、いかに死体を手に入れるのか、という下りである。死刑執行された遺体を、遺族よりも先に奪い合ったり、非合法に墓堀職人と結託して墓地から盗み出したり。また、そのシステムをビジネスとして確立していくところも、不気味さとともに、死体確保に情熱を傾けるハンターたちの姿が生き生きと感じられる。
 体系的な近代医学が確立されていなかった時代においては、解剖を通して独自に知識を貯えていくしかなかった。画家を雇って詳細なスケッチを制作したり、標本を作り保存する独自の方法を編み出したりして、未来につながる知の体系を次々と作り上げていった。彼はそれまでの、間違った説を妄信する権威に対して、果敢に立ち向かい、激しく戦いを挑んでいった。そのため、多くの優秀な弟子を排出し、彼らの多くにとても慕われていたが、同時に敵も多かった。およそ、処世術といったことには無頓着で、高所得と言ってよい稼ぎのほとんどを標本の購入や、死体の引き取り、珍しい動物の購入に、惜しみなくつぎ込んで行った。医学の世界に多大な貢献をしたが、多額の借金がたたって、ハンターの死後、遺族が不幸になってしまったのは、なんともやりきれないものがある。また、彼が残した遺恨によって、義理の弟の反撃にあい、多くの準備段階の論文が失われてしまった。
 ここで、どんなにくわしく書いても、本書の魅力の1/10も伝わらないと思うので、是非手に取って読んでほしいと思う。

 実はここまで長々と書いて来たのは、「独学」ということについて、ちょっと書いてみようと思ったからである。
 ハンターのやってきた方法は、現在であれば「独学」に近い物であったと思う。彼は正規の医学の教育(その内容はお粗末だったとはいえ)を受けていなかったし、それまでなかった方法を開発して、解剖や標本作りをする必要に迫られた。そして、医学に「観察して、推論して、実験する」という科学的手法を導入した、初めての人であった。
 超人的な体力と、たぐいまれな知的好奇心なくしては、とても実現できるような仕事量ではない。だからこそ「独学」というのは、生半可にできるものではないし、出来れば正規の教育を受ける道に進んだ方が良いと僕は思っている。
 絵の世界や、イラストレーションの世界だけではないが、「独学」であることがもてはやされる風潮を感じる事がある。しかし、僕の専門である美術についても、体系的な勉強をしたほうがはるかに効率的だ。デッサンをすることは、地道な作業の連続で、自由な表現から遠いところにあると思うかもしれないが、これまでに積み上げられて来た先人の眼を追体験するように、とても多くのことを学ぶことができる。また、絵を描く事はフィジカルな行為でもあるので、手を動かす修練をするためにも不可欠である。ハンターの言葉を借りるなら「観察して、イメージして、実際に描く」といったところだろうか。
 もちろん「独学」で到達できる人もいるかもしれないが、それは遠く険しい道のりだろう。それに、ひとたびプロになれば、「独学にしてはすごい」なんて枕詞は、なんの免罪符にもならない。見る人にとっては、そこにある画面が全てであり、極端に言えば良い絵かそうでないかだけである。
 ただ、権威に無用な反発をし、進むべき正道を踏み外し、手近な自由を求めたとしても、その先に待っているのは暗い未来ではないだろうか。僕自身は、今日本で受けられる最もアカデミックな美術教育を受けて来た人間の一人だ。だからといって、権威に対して妄信的におもねっているわけではないが、今僕が身につけることができたスキルは、大いにその恩恵を受けている。本当に絵を描いていきたいと思うなら、その欲求を満たすだけでなく、目の前にある困難にも、嫌なことにも、まずは立ち向かっていってほしいと思う。
 実を言うと、僕は油画科に入学したにも関わらず、受験生のときは油絵が大嫌いだった。どうにもあのねばねばとした素材が合わなくて、描く事が苦痛でしょうがなかったのである。そこで僕は、「まずは敵をよく知る事が大切だろう」と、油絵の成り立ちや技法書を徹底的に読み込み、その仕組みから理解しようとしてみた。そうなってくると、どんどん楽しくなってくる。やがては油絵に対するコンプレックスもなくなり、ある程度思い通りに描けるようになった。
 勉強したといっても、大したことではなかったと思うのだけど、目の前の困難から逃げずに、立ち向かえたことは、今でも大きな財産になっていると思う。
 現在は、正規に学べる環境が多く存在している。時間はかかるかもしれないが、「通信教育」という手段もある。「独学」などと言わず、まずはその道の体系的な教育を受けるべきだと思う。間違いなく、鍛えられる。
 少々、教師とそりがあわなかったぐらいで学校を中退してしまったり、そっぽを向いてしまうなんてのは、「根性なし」以外のなにものでもない。
 「独学にしては凄い」なんて、ものすごく恥ずかしい物言いだと、僕は思う。

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投稿者 corvo : 2007年8月27日 01:33