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2006年11月18日
「水からの伝言」って何だ
先日、小説家川端裕人さんのblogで「トンデモ科学ネタ、ふたつ」というエントリーがあった。日常的に訪れているblogで、何気なく読んでいたのだけど世の中には色々と不思議なことが多い。というか人間というのは実に不思議な生き物だと、あらためて思ったのである。
僕は幸いにも「水からの伝言」という本の存在を知らなかった。「不幸にも」知らなかったのではなく、「幸いにも」知らなかったのである。実際、この本を買ったり、借りてきたりしたわけではないので、批判的なことを書くことはフェアーではないのだけど、内容としては大雑把に次のようなものらしい。
「水に『ありがとう』などの『よい言葉』を見せると、きれいな結晶ができて、『ばかやろう』などの『わるい言葉』を見せると、きたない結晶ができる」というお話らしいのである。
そして、これに対して学習院大学の田崎晴明教授が『「水からの伝言」を信じないでください』というページをアップされていて、研究者として真摯に反論を述べられているのである。
僕も研究者と関わることの多い仕事をしているので、田崎教授の書かれた文章をすんなりと納得することが出来た。「水からの伝言」で主張されていることがいかに馬鹿げたことで、科学的に論外であることは、実際の本を手にするまでもなく明らかだろう。
僕が気になったのは、何をもってして「美しい」と判断しているのかいう点である。
何を「美しい」と感じるかということは、極めて個の問題であり、100人中100人が「美しい」と感動することはありえない。レオナルドの傑作「モナ・リザ」であっても、「気持ちが悪い顔だ」という感想を持つ人もいる。ただし、「モナ・リザ」を「美しい」と思えないから悪いということではなく、それほどに「美しい」と思うことは「個」にゆだねられた部分であり、誰でもが客観的に判断出来るものではないのである。
「非常に形の整った美しい結晶」という表現ならば、まだ理解出来る。写真集に掲載された水の結晶の写真は、とても美しいのかもしれないが、著者の選んだ「美しさ」を提示されても納得することは出来ないだろう。
「ありがとう」がよい言葉で、「ばかやろう」が悪い言葉と定義することは、一見まっとうなように見えるが、皮肉を込めた「ありがとう」や、親しみの表現としての「ばかやろう」だってある。それを「水」はどう判断しているというのだろう。
この件については、ネットでも様々な意見を読むことが出来る。ただし、ものすごく時間を浪費することは確かである。
とにかく田崎教授の一文を読んでみてください。科学というもののあり方を、真摯に見つめるきっかけになると思います。
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投稿者 corvo : 2006年11月18日 02:38
コメント
こういうオカルトみたいなのって、何で出てくるんでしょうかね。
何かの宗教にでも入ってるのでしょうか?
不思議です・・・
投稿者 ニヤゾフ : 2006年11月18日 09:49
『水からの伝言』が道徳の授業に使われているのですか・・・!
・・・驚きました。
この本のことは、よーーく知っておりましたが
(なるべく自然に子育てしよう・・・という母親とか電磁波とか波動とか気にする健康志向の人々の間ではわりと当たり前に紹介されている本です)
そういうこともあるかもしれないけど、それだけじゃないでしょ?って範疇のものですからね。
個人の生活、思想の中で取り入れ、気持ちよく暮らせるならそれでいいな・・・それくらいのものでしょう。
個々の生活観にすぎず、他人と共有すべきではない次元の話を
そんなことの判別も付かずに鵜呑みにして教材に取り入れる教師の浅はかさがしれません~~~
あぁ・・・そんな学校に子どもをやるのがイヤだなと思うのは
飛躍しすぎでしょうか。
投稿者 しるく : 2006年11月18日 10:36
追記すみません。
この本が「科学的に正しい」というようなことを言ってるから
問題なのですよね。
これが正しいか正しくないかというのは
考え出すとキリがなく、深く悩みそうなのでやめておきます(汗)
が・・・道徳で取り上げるな・・・他になんか大事な教材があるだろ!と思います。
投稿者 しるく : 2006年11月18日 10:42
「水からの伝言」は知っていましたが、あまりにも個人の主観を押し付けている気がしていました。
国語の感想文や美術や音楽など、感性が主体になるものは、個人個人で受け止め方や器の大きさ、表現方法が違うので、一概に「こうだ」と言い切る事は出来ません。
※先日の美術教育論議もそうでしたね。
こういう話はキリスト教協会と科学の対立のようで、しかも紹介していたのが川端さんと言うのが「竜とわれらの時代」を思い起こし「これもまた興味深いな・・・」と感じました。
投稿者 チョビ之助 : 2006年11月18日 12:21
道徳で取り上げたくなる気持ちが分かります。
今の小中学生は、大した考えも無く平気で他人に対して
「キモい」「ウザい」「ウルセー」「バカ」「死ね」「自殺しろ」などと言います。
(気をつけていると、テレビアニメでも平気で使っています。)
それをなんとか止めさせたくて、でも有効な手段は全然なくて、
こういう話で少しでも無くなれば、という思いで使ったのでしょう。
科学的に正しいかどうかは理科にまかせて、
道徳では心を動かさなければいけませんから。
皆さんのご批判にもかかわらず、これは使えるかも、と私も思いました。
国語や芸術系の科目で主観を押しつけるのは良くない、
というとは理解できます。
しかし、小中学生は多様な解釈にはなかなかついて行くことができません。
ある程度、これはこういうことなんだよ、と教師の主観に基づく解釈を
示してあげなければなりません。
その時に、他の解釈があることは伝えられますが、たいていは混乱します。
また、国語では解釈を絞ってあげなければテストなどで評価ができません。
小中学校の教育は基本的に教師と言う一人の大人の
生き方や考え方を生徒に見せてやるものだと私は思っています。
教科の内容を問題の解き方を教えるだけではないのです。
教師を通して人間として日本人として生きるためにはどうしたら良いかを
それを学ばせるところが学校だと思うのです。
中には文字通り反面教師にしたい人もいますが。
一人の公立学校の国語教師の意見でした。
投稿者 アンクルディノ : 2006年11月18日 12:56
>ニヤゾフさん
ある判断基準を世間またはある程度の人数の集団に定着させる事に成功するとお金儲けになる場合があります。
特に、単純な「良い」「悪い」の二元論はその実態に関わらず受け入れられ易いようです。
投稿者 僧帽筋 : 2006年11月18日 12:56
『水からの伝言』はいまだに教育現場で大人気ですよ。保育園の勉強会に著者を呼んだり、小中学校の総合学習で活用したり。ある先生から聞いたんですが、小学校で「紙にバカとか好きとか書いて水にいれると、バカは沈んで好きは浮かぶことを確かめよう」なんて実験をやったと・・・ ( ゚Д゚)ポカーン
で、こうした「疑似科学」「インチキ科学」への批判がきちんとなされるようになったのは最近のことですが、いい傾向だと思います。田崎先生は日本物理学会で「ニセ科学シンポジウム」http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/events/JPSsympo0306.html
を行った方ですね。corvoさんの仰有るとおり「『水からの伝言』を信じないでください」はとても素敵な文章だと思います。こういう文章をこそ、総合学習の教材に使えばいいのに。子どもってオトナが考えているよりずっと、理性も知性も備えているもんです。
あと、corvoさんが「美の判断基準」にツッコんだ点が新鮮で面白かったです。
投稿者 yoiko : 2006年11月18日 13:29
「水からの伝言」を信じないで下さい』、読ませていただきました。
あと、yoikoさんのコメントでの
>小学校で「紙にバカとか好きとか書いて水にいれると、バカは沈んで好きは浮かぶことを確かめよう」なんて実験をやったと・・・
というのを読んで、ヨーロッパ中世の魔女裁判を思い出しました。
グルグルに簀巻きにして水に放り込んで、沈んだら魔女、浮いたら魔女ではない。
(イギリスの裁判記録として何件も報告されています。)
それに似た発想だなと。
この魔女裁判を読んで笑っていられることがこの先できるのだろうか・・・と暗鬱な気持ちになります。
上記の実験が「水からの伝言」の逆説的授業であることを願いたいものです。
投稿者 やまとなでしこ : 2006年11月18日 14:32
>ニヤゾフさん
僧帽筋さんも書いておられますが、非常にビジネス的に展開しているようです。
商売の種ですね。
>しるくさん
道徳に使われていることは、本当に驚きです。
科学的に正しくないことは、これはもう火を見るよりも明らかです。これがファンタジーであって、創作されたお話だということであれば、道徳的な物語として利用してもかまわないと思いますが、絶対に起こりえないことを事実だと伝えることは、大いに問題です。
水にモーツァルト聞かせるぐらいなら、自分で聞いて気持ちよくなったほうが、よっぽど良いです。
言葉の美醜を、何故「水」に判断してもらわなくてはいけないのか。
これでは、学校がますます信用されなくなってしまうでしょうね。
>チョビ之助さん
川端さんは「ゲーム脳」についても、突っ込んだ議論をされています。
これも「トンデモ」です。
ファンタジーだというならば、それはそれでいいのだと思います。
地球上の出来事ではなくて、意識をもった「水」が存在する世界を描いたのであれば、それで良いと思います。「惑星ソラリス」のように。
>アンクルディノさん
これを道徳で取り上げることは、大問題です。
科学的に正しいかどうかを理科に任せる、という態度も問題だと思います。
学問とはそんな縦割りで風通しの悪いものでは無いはずです。
言葉遣いの問題は、大きくは家庭の問題だと思うので、学校に何かを期待することは難しいと思います。でも、美しい言葉遣い、美しい日本語、というものを国語教育において実践することは出来ると思います。
心を動かすのであれば、このようなものに頼らなくても、人類が築き上げてきた遺産はいくらでもあります。あまりにも教師が無知で、勉強不足ではないでしょうか。インスタントに解決する便利アイテムなんてものはないのです。
僕は国語や芸術科目で主観を押し付けるのは良くない、と思っているわけではありません。100%客観に徹することは出来ません。作品として発表されたものは、作者の主観の発露です。その作品の成り立ち、あり方、作者の思考、それらを事実に基づいて伝えることは出来ます。そこで教師が自分の考えだけを押し付けてしまってはおかしくなりますが、主観と客観をバランスよく持つことの大切さを伝えることは可能ではないでしょうか。
田崎教授の文章は極めてバランス感覚にすぐれた素晴らしいものだと思います。
「水からの伝言」を教材にする時間があるのなら、田崎教授の文章を教材にすれば良いのではないでしょうか。
>僧帽筋さん
ご回答ありがとうございます。しっかり商売にしているようです。
それが道徳教育に使われるというのは、本当に問題です。
>yoikoさん
やはりお子さんがいるとリアルなのですね。
紙の実験は、見てみたいものです。本気でやってるのでしょうか。
子供の知性、理性は侮りがたいと思います。良く人を観察しています。
このエントリーでもコメントを書いてくれた、常連コメンターのニヤゾフさんは小学生です。いつも的確なコメントを書いてくれます。彼だけが特別ではないと思います。
「美の判断基準」はもう少し突っ込みたかったのですが、エネルギー切れになってしまいました。
>やまとなでしこさん
そうですね、まさに魔女裁判ですね。
その悲劇を繰り返すことになりはしないか、いじめの原因になるかもしれません。
田崎教授の文章に、科学とはどういうこであるのかということが、全て書かれていると思いました。素晴らしい教材になると思います。
投稿者 corvo : 2006年11月18日 14:53
いつもはこういう話題はなるべくスルーするのですが、看過できないな、と。
子供の思考は、大人が考えているほど幼稚ではありません。
少なくとも、私自身は小学生時代から「教師もただの人だから」という覚めた目で見ていました。
両親とも、教師という特殊な環境のせいかもしれませんが、学校側からすれば非常に扱いづらいイヤな子供だったと思います。
ちなみに私も国語科の教員免許「だけ」は強引に取らされましたが、絶対にこの職業に付く気はありませんでした。
私のような人間に、ヘタに純粋培養された子供が感化されてほしくないですから。
ちょっと本題からそれました。ご不快でしたら削除いたします。
投稿者 Jack : 2006年11月18日 16:17
ファンタジーにそれを使ったTOSS道徳ですか。
2ちゃんねるとかWikipediaとか見たけど、なんか凄いですねえ。
うちの上の子供は来年から小学生なので参考になりました。
投稿者 アイスストーン : 2006年11月18日 16:58
Amazonのレビューを見たら、「水売り商法だ」と書いてあり、新手の健康商法かとも思ってました。
また、新手の唯物論(条件反射論)でもあるなと思っていました。パブロフの21世紀版。
もし、そうだとしたら、こんな風にひっくり返せるなと思っていました。もし、精神が、物質にここまで端的に影響を与えられるなら、物質に依存する必要も、またないはずだと。つまり、他人からバカバカと言われても、家に帰って自分を「お利口お利口」と褒めてやれば済む。だから、他人の悪口なんか幾ら言っても良いって話。
これじゃ、道徳の授業にはならない(笑)
それに、礼儀正しい社会は確かに気持が良い。でも、表面的にそうするだけなら、「トラブルの先延ばし」に過ぎませんよ。結局、道徳や倫理をコミュニケーションと捉えず、単純な「刺激反応システム」(波動の相互干渉とでも言うのかな?)で捉えているから、そうなるんでしょう。
TV局の、「差別用語」と似てますね。それに、会社で上司が、部下を叱れなくなりそう。
もし、その程度の浅知恵だったら、公教育で教えるには、相応しくないんじゃないかな。
投稿者 失敗だらけだフニャ : 2006年11月18日 17:10
>小学校の授業の教材
教材として使用した小学校の教員に興味があります。
児童の注目を集めるためになどと軽々しく使ってしまったのだろうと思いますが(^_^;)
投稿者 Bambook : 2006年11月18日 18:29
>corvoさん
結晶の件は、読売に書かれた実験を参考にすると、「きたない言葉」が別の元素を生み出すようにも解釈出来ます。不純物が混ざって「きたない結晶」なのかも。
面白いので主観でまとめてみました。
・波動ビジネスの人が『水からの伝言』を出版
(「水からの伝言 波動ビジネス」でグーグルするとズバリ出る)
→読売新聞2006年10月2日の夕刊に共著者が参加した実験が「ニセ科学」と紹介される
→個人的には、某実験が英語と日本語でしか行われてないが、
他国語だとどうなるか考えてないようで滑稽に感じる。
(Aの国の褒め言葉の音がBで罵倒に近いなんてのがあると思う)
・教師のカリスマ的存在が主催する団体が『水からの伝言』教材とするような流れを作る
→AERAに批判的な記事が載る
→個人的には、明確な指導法や、それを導き出す場に悩む教育者の姿を痛感。
ちょっと考えれば「それはちょっとマズいだろ」も、カリスマの勢いや
それに所属する人達の多さから考えず気付かずのような気も。
ウチの子供がそんな教師に当たったら、子供には教師を否定せずに教師の考え方を否定しなければならないでしょうから大変だと思います(子供が学校で教師を否定したら、最悪教師と生徒一丸のいじめ環境が出来るでしょうから)
「言葉の持つ意識エネルギー」は水よりも、水をネタに右往左往する人に大きく作用するのは間違い無いようです。
ちなみに僕は「それエセ科学じゃないの?」という実験に基づく非常に高額な育児用品の存在を知ってます。
投稿者 アイスストーン : 2006年11月19日 10:38
「『ありがとう』などの『よい言葉』を見せた水は、こおらせたとき美しい結晶をつくるが、『ばかやろう』などの『わるい言葉』を見せた水は、こおらせても結晶をつくれない」
『「人の体の70パーセントは水でできている」と説明します(これは、本当です)。そして、人に「わるい言葉」を使うと、体の中の水が影響を受けてしまうから、「わるい言葉」を使わないようにしよう』
これらを道徳に使って誰か傷つく人がいるのでしょうか?
これを道徳に使うと誰か儲かる人がいるのでしょうか?
盛んに報道されているので皆さんご存じだと思いますが、
学校現場で今、一番問題になっていることは「いじめ」
とそこから引き起こされる「自殺」です。
われわれ学校教育に携わるものは、なんとかこれを防ぎたいと思っています。
上に書いたように、今、学校ではほんとうに簡単に他人を傷つける言葉が横行しています。
傷つける行動もしょっちゅうです。
しかも加速しエスカレートしています。
しかし、それを止める術をわれわれはほとんど持っていません。
持っていれば、こんなにいじめは起こらないし、自殺も防げます。
ですから、今私たちはこの問題に対して、藁にもすがる思いでいるのです。
誤解を恐れずにいうならば、生徒が自殺を思い止まってくれるのならば、
科学的には間違っていることであっても、それを使って生徒を救いたい。
科学的に正しいか間違っているかなどということは、
いま正に目の前で屋上から飛び下りようとしている子どもには
何の意味もないことです。
理論的に正しいことを言っても、今目の前で言っている悪口を止めることはできません。
金八先生は言いました。
「人という字は二人の人が支え合っている様子を表している。」
この言葉でどれほど多くの人が心が暖かくなったり感動したりしたことでしょう。
実際にこの言葉を使ってクラスをまとめた先生もたくさんいます。
でも、残念ながら「人」という字の成り立ちとしてはこれは誤りです。
(本当は、左を向き手をだらりとたらした人を横から見たところです。)
でも、成り立ちが合っていなくてもクラスがまとまることの方がはるかに大事です。
そのクラスが助け合っていじめのない集団になってくれる方が科学的事実よりも大切です。
『水からの伝言』は科学的には正しいことではないのかもしれません。
でも、今は科学的に正しいか正しくないかを検証している猶予はないのです。
使えるものはなんでも使う。
そして生徒の心を少しでも良い方向に動かす。
その結果いじめと自殺を止める。
インスタントだと批判されようともそれで自殺しないのなら喜んで使います。
『水からの伝言』よりも良いものがあれば、当然それを使います。
生徒たちが「死ね」「ウザい」「キモい」などの言葉を使わなくなるようなものがあれば
大歓迎です。
田崎教授の文章を使って生徒の心を変えられるのならとてもうれしいです。
(↑これは今後の課題として研究したいと思います。)
もし、いじめと自殺を止める良い題材が見つかりましたらぜひ教えてください。
これは厭味で言っているのではありません。
corvoさんの言う通り、勉強が足りないのかもしれません。
また、現場にいないからこそ見えるものもあるでしょう。
ですから、私たちの見えないことをぜひ教えてほしいのです。
これ以上、子どもの犠牲者を増やさないために。
投稿者 アンクルディノ : 2006年11月19日 10:41
>Jackさん
僕も子供の鋭さを痛感することが、しばしばあります。
個人的には、小学校の教師は各教科の専門性に優れた人がやるべきではないかと思っています。国語も、数学も、その道のスペシャリストが授業をし、ホームルーム担任は、別のスキルを持った教師があたるというものです。
子供は敏感に大人の資質を見抜くところがあります。一人の教師が全ての教科をみるというシステムは、かなり無理があるのではないでしょうか。
>失敗だらけだフニャさん
一連のことが、商売ありきであることは明白だと思います。
それを道徳の教材にするとは、本末転倒です。
「良い言葉」だけで解決するなら、非常に恣意的で、自己中心的な考えが、蔓延してしまいますね。
こんな理屈がまかり通ってしまったら、社会は大混乱してしまいます。
>Bambookさん
子供たちの関心を集めるために腐心されている先生方が多いのでしょうね。
この話に飛びついてしまったのだと思います。素直に信じてしまった子供たちに、今後どう説明していくのか難しい問題だと思います。
>アイスストーンさん
他言語の問題は、僕もすぐに突っ込みいれたくなりました。エントリーにも書きましたが、表面的な言葉と深層にある感情が、別々のことは多々あります。
スペイン語だと、日常的な挨拶は「オラ!」ですが、文字だけ見たら日本語ではあまりきれいな言葉ではないでしょう。
科学だというなら、誰が同じ実験をしても、同じ結果に至らなければおかしいです。その方法すら公表されていないということであれば、事実であるかどうか確認することもできません。
ネットをを見ていたら、実際に自分のお子さんがそういう授業を受けてきたという話があって、親御さんが対応に苦慮したというものでした。学校のやりとりのディテールは書いてありませんでしたが、その苦労は容易に想像がつきます。
言葉とは、言葉を理解出来る、人類にだけ作用するものです。
それは揺るぎようのない事実です。
育児、教育には、いろいろ問題の多いアイテムが多そうですね。
投稿者 corvo : 2006年11月19日 11:33
>アンクルディノさん
道徳の授業に使ってしまうと、傷つく人が出ます。
ある子供さんが、「水からの伝言」の授業を受けてきます。その親はそれが決定的に間違いであることを分かっています。子供は嬉々として授業の内容を話します。親は対応に苦慮します。子供は教師を信頼している。でも、事実でないことを伝えなくてはいけない。
アイスストーンさんも書いておられますが、その子供だけが教師を否定したら、恰好のいじめの対象になるでしょう。
これでも、誰も傷つかないと言えるでしょうか。
間違った理論を使って、確実にもうけている人たちがいます。どれぐらいもうかっているかは分かりませんが、そのアイテムの値段を見る限り異常な高価格です。
http://www.hado.com/
http://www.hado.com/shopping/new/hado-iindex.htm
こんなものが283500円もします。
道徳の授業を受けて、信じた子供たち、その親たちは、お客さん予備軍です。
お客さんを育て、市場を開拓することは悪いことではありません。しかし、その前提になっていることが間違いであることが、おかしいのです。
僕は「いじめ」はなくならないと思っています。生物として、きわめて本能的な行為だと思います。犬でも猫でも、いじめます。それに耐えられない個体は死に至ります。だからといって「いじめ」を肯定しているのではありません。
「いじめ」を根絶する方向だけでなく、「いじめ」に耐える強さの訓練も大切だと思います。大人になってもいじめはあります。それが仕事に直結したところで行われれば、今の子供たち以上に苦痛でしょう。
でも、それを乗り越えていくことが大切です。
「いじめ」という苦痛を取り除くだけでなく、それに耐える、もしくは逃げてしまうのも、解決のひとつだと思います。でも、「死」に逃げるのだけは駄目です。
「道徳」ではなく「宗教」の教えであれば、それで良いと思います。
しかし、科学的事実を教える場でもある学校というところでは、それではいけないのではないでしょうか。
併せてこれは事実ではないと教えるべきではないでしょうか。
教育とは50年、100年といった先を見据えて行うものだと思います。
それが出来ない国のあり方に問題もあります。
僕は絵を描くことで、子供たちに伝えていきたいことがたくさんあります。
だからこそ50年、100年、人の目に耐える作品であってほしいと思い、日々描いています。
教育現場が大変なことは想像できますが、インスタントに間違った教材をつかうことには反対です。
投稿者 corvo : 2006年11月19日 12:08
教育で使用する問題点ですが・・・
例えば、いじめられっ子の名前を書いた紙を水に沈める実験を行うといういじめに使うことができますよ。
投稿者 僧坊筋 : 2006年11月19日 12:38
アンクルディノさんのコメントは凄く分かります。まさに「もし僕が学校の先生だったらそう考えるだろうな」と思っていた事なので
ただ残念ながら救われるのは「先生が」であって「生徒が」というのとはチョット違うんです。
僕が知る情報だけでも、先生は軽視される傾向にあります。僕は1970年生まれで、中学時代は金八先生の話の中にあった校内暴力世代が卒業した頃で、業者テストと学校が提携していて偏差値至上主義がキッチリ構築されてました。小学校時代は塾に行っている子が学校より進んだ内容をやっている事を威張っているような状況でした。そういえば中学3年の頃はクラス1番の成績の子は内職で塾の勉強をしてました(僕は家が貧乏だったので学校でしか知識を得る場所が無く、でも小学校は学校の成績は極めて良い、中学校は良いだったのもあり授業は好きだったので、当時はクラスメイトのそういった考えが理解できなかったのですが)。
これらは今と何も変わってないようにも見えますがチョット違います、親が自分の歪んだ体験談を基にして、学校の授業及び先生をバカにして、それを子供に話しているという何とも信じられない実態があるのです。学校の授業を良くしようと協力してくれる人達が年を追う毎にどんどん減ってくる、そんな環境なんじゃないかと思います。
じゃあそんな劣悪な環境の中で先生が何を頼りにすれば良いかと考えると、僕なら確立した方法論を持った集団に属する事を考えると思います。例えばTOSSに目を向けるのは一つの方法論だと思います。そうする事によって自分にとってプラスに働く可能性が高い、生徒にもプラスに働くかもしれない。
僕は先生じゃないから批判をするけど、先生だったら批判があるのも知っていても『水からの伝言』を道徳に使うかもしれない。僕の妄想で構築された事実ではそんなところです。
劣悪な環境の末にカリスマに縋り、その結果、まるで捏造されたかのうようなインチキにすら縋らなければならないほどの現状が存在するという事が分かっただけでも、対処方法を考えなければならないという情報を得た事から「参考になりました。」なんです。
なお、僕は最近子供に対して「汚い言葉」を使うようにしています。汚い言葉に対する耐性を付けるのが目的です(それが総合的に見て適切な行動か否かは分かりません)。なお、汚い言葉を使うと妻が必ず僕を批判してくれます。それも踏まえて子供に見てもらえればと思ってます。
投稿者 アイスストーン : 2006年11月19日 13:10
>僧坊筋さん
確かにいろいろな手段が考えられてしまいますね。
成績の悪さや、素行の悪さを、水に原因を持っていくことも出来てしまいます。
>アイスストーンさん
参考になります。
先生方はそれほど追いつめられているのでしょうね。僕には小学校、中学校で教えた経験がないので想像するしかないです。ただ、ゲスト講師で小学校を何件かまわりましたが、「恐竜」というお題だったためか、皆熱心に聞いてくれました。先生方の協力も大きかったと思いますが、そんなに酷い状況だとは思えませんでした。
僕は1969年生まれなので、アイスストーンさんとは全く同じ世代と言っても良いです。学校というところは、同じような状況でした。
学校は駄目だ。役に立たない。教師なんてどうしようもない。なんて事を言うことは簡単です。ネットでもそういう主張を見かけることがあります。でも、それでは何の解決にもならないし、無責任な言いっぱなしでしかありません。
学校を否定するのではなく、社会全体で学校に協力していくほうが、はるかに前向きだと思います。
「汚い言葉」も時に必要なこともあるだろうし、なにが「汚い言葉」かを実感する必要もあるでしょう。どんな言葉を使われたら、自分が嫌な気分になるか、それに気づけるだけでも大きいと思います。
投稿者 corvo : 2006年11月19日 18:39
>アンクルディノさん
こんにちは。
>これらを道徳に使って誰か傷つく人がいるのでしょうか?
残念ながら、いるでしょう。また、現在進行形のいじめをより加速する可能性すらありますよ。
というのも、水伝の実験(ほんとは実験とは言えないものですが)は「汚い言葉をかけられた相手の体内の水が汚れる」というものであって、「声かけした当人の体内の水が汚れる」とはなっていないからです。江本氏もそのような実験はしていませんしね。
つまり、いじめ側といじめられ側との間で、この説が共通認識として成り立ってしまうと、現にいじめをしている子にとって見れば、自分に都合のいい武器を手に入れたも同然です。単に声をかけるだけで、相手を物理的に攻撃することができるわけですから。また攻撃を受ける側は、自分が汚されたと思い込むでしょう。
それに、現在いじめをやっているような子が、「相手の体内の水に影響するから言葉の暴力はやめよう」というような、「相手を気遣う気持ち」を持ち合わせているのなら、最初からいじめなどしないないでしょう。
ようするに「水伝」は、いじめない側の理屈を補強すると同時に、いじめる側の手段も補強し、結果的により深刻ないじめへと向かう可能性をはらんでいるわけです。また、現在進行形のいじめに対する解決には、なんらつながらない。
こういう所に想像力が及ばない教師がいるというのが、大きな問題です。すべては、科学への理解のなさがなせる業です。
だから、「水伝」を授業で使うことは、許されないのです。
>これを道徳に使うと誰か儲かる人がいるのでしょうか?
本の著者とその周辺の人が儲かってるでしょうね。
投稿者 A-WING : 2006年11月20日 11:09
スミマセン、しつこいですがまだ書きます(オチです)。
実はこれってニヤゾフさんの最初の三行で結論が出ているんですけどね。
「こんな授業を受けてない人には奇異で理解出来ない」
生徒から見たらこれが普通の感覚だと思うんですよ。別に生徒じゃなくても普通なら、か。
で、普通の感覚から見たらオカルトにしか見えないこれを道徳に使えば間違い無く危険です。
例えばそんなインチな教育を受けた生徒が教育を受けてない生徒と接触した場合に特に。
こんなインチキ科学に基づいた道徳を受けても、同一学区内いれば「俺もそんな変な事教わったよ」という妙な連帯感があるかもしれませんが、引越しした生徒が
引越しした先でこのインチキ教育を何かの切っ掛けに語ったらどうなると思います?僕は危険だと思います。
いじめの発端の一つには「皆と違う考えである」である事だと思います。つまりオカルトやインチキ科学呼ばわりされている物を道徳に使うなんて、端的に言えば生徒が自殺する種を植えるだけに過ぎないかもしれないんじゃないかと思うんです。
要は、先生が「使える」と思ったとしても、結局は自分が担当している学年とクラスのレベルでしか築けない道徳だと思うんですよ、教育に流用した場合。だから先に書いた「先生の為」であって「生徒の為」にはなりえない、それどころか総合的に見て明らかにマイナス。
もし僕が学校の先生で目先の保身で担当する時期だけの生徒の安泰を考えたら水モノ道徳は使いますよ、多分。
でも、もし僕が狡賢い保身バッチリの先生だったら、チョット考えれば先に書いたとおり最悪引越しした生徒が自分の教えで不幸が起きたら自分にも悪影響が出るからこんなの使いませんね。
そして、もし僕が周りの見える落ち着き払った先生だったら…。書く必要はありませんね。
個人的には、タイアップ疑惑とかそういうのはどうでもいいです。儲ける人の為に損する人がいなければ、ですけどね。
投稿者 アイスストーン : 2006年11月20日 22:52
>A-WINGさん
初めまして、コメントありがとうございます。
いじめの問題につながるであろうこと、よく分かります。自分は汚れることなく、水だけが汚れていく。環境に対しても問題が大きそうです。とにもかくにも、道徳の授業で使用することは、決定的な間違いです。短絡的に目先の問題の解決に走ってしまうことは、教育にとって最も悪しき行為の一つだと思います。
あくまでも対症療法でしかなく、本質を見据えたものではないと思います。
科学を妄信するのではなく、正しく理解することが大事です。科学への正しい理解が人を不幸にすることはないはずです。
>アイスストーンさん
僕もこの話を知ったときは、ニヤゾフさんと全く同じような感想でした。どこをどうやったら、信じることが出来るのか?全くもって理解不能なことでした。
いじめの原因になる一つに「嘘つき」があると思います。嘘つく方も、皆の気を引きたいから嘘に嘘を重ねていき、収拾がつかなくなって周りを爆発させてしまう。それ以降、信用もされないし、無視されることになってしまう。「水」の話は本人がつこうと思ってついた嘘ではないかもしれないけど、「嘘つき」呼ばわりされることは避けられないと思います。
儲かる、儲からないという点は、お金を払った対価のぶんだけ、サービスが受けられたと思えるのならいいと思うのですが、ここの商品を見る限り間違いなく、その金額に見合ったサービスを受けることは出来ないと思えます。
買ってしまった人は、結果的に損をしてしまう結果になるでしょうね。
投稿者 corvo : 2006年11月21日 06:16
このような非科学的なことを「作り話だ。」と言わないで紹介すると、賢い子には「胡散臭い。」と思われて、本来言いたかった「言葉遣いに気をつけよう。」というメッセージも軽んじられると思います。そしてcorvoさんも仰っているように、先生のことを信用しなくなりますね。
小学生の頃、祖父が講師をしている専門分野のことを調べるように言われ、調べて答えたとき、先生が「違います。」と言下に否定し、俗説=間違った説を自信たっぷりに述べたことがあります。それでもう私はその先生のことを信用しなくなりました。不信感の理由は二つ。一つは間違ったことを平気で教えること。もう一つは自分が間違ったり、知らないと言うことを絶対に認めないということ。どちらかというと、後者の方がより大きい不信感に繋がりました。
この題材を教育現場に広げたTOSSという集団について。
私は我が子に自分で日本の教育をしなければならないので、ネットで教材や教え方を探して参考にしています。TOSSは授業の具体例がいろいろと載っているので、よく見ていました。
TOSSの思想は、「授業は教科書を使って教えよう。」「授業中に無駄な時間を過ごす子がいないようにしよう。」というふうで、授業を大切にし、教えるべきことはきっちり教えようという、やる気のある教師のグループだと思います。一方「百ます計算」を徹底的に批判していたりして、ちょっと自信過剰で狭量だという気もしていました。
今回の水の話は、きっと「道徳教育をしっかりしたい。」というのと「子供を惹きつける授業をしたい。」というとても前向きな気持ちで始まったのだと思います。しかし、科学的に間違っていることがわかったら、それを認めて、HPや授業などで訂正するべきだと思うんですよね。私が経験した↑ように、先生が間違うことよりも、間違ったことを認めないことの方が、重大な先生不信に繋がります。間違えを認めることだって、大切な道徳教育ですよね。「道徳教育をしっかりしたい。」というやる気のあるグループなのですから、知らないうちに情報を削除したりするのではなく、きちんと説明、訂正すべきだと思いました。
それをきちんとすれば、自信過剰で狭量というTOSSのマイナスイメージを覆す良いきっかけとなるような気がするのですけど。
投稿者 milesta : 2006年11月21日 08:36
>milestaさん
間違っていたことを素直に認める姿勢を示すことができれば、非常に有用な反面教材となると思います。科学的立場というのは、絶対的であるということを示すことではなく、現時点ではこう考えるのが妥当ではないか、というスタンスです。
決して、科学を妄信したり、意固地に自説に囚われることではないです。
もう答えははっきりしていると思います。
「水からの伝言」を教育現場では絶対に使うべきではないこと。
もし、紹介してしまった後なら、これが科学的に間違いであることを説明し、どうして間違いなのか、どうして間違いを認めるに至ったかを授業で話をすること。
これ以上、間違った知識が広がらないことを願っています。
投稿者 corvo : 2006年11月21日 19:06
昨日の朝、私が道徳でやるならどうやるかを書き込んだのですが、
朝忙しい時だったためか書き込みを失敗してしまったようです。
その間に、皆さんが新しい意見を出されているので、後出しジャンケンのように
見えるかもしれませんが、まあ、最初から誤解を恐れずに書いているので、
ここにきて小さなことに気を遣ってもしょうがないですね。
ということで、私がこの題材を道徳で扱うとしたら。
まず導入です。
二枚の氷の結晶の写真を見せます。
何も情報を出さないまま、感想を求めます。
「片方がきれいで、片方は汚い」程度の簡単なことを言ってもらえれば充分です。
どうしてこんな差が出たのか想像させます。
問題を身近に感じてもらうため、挙手指名の形をとらず、
なるべく多くの生徒に発言をしてさせます。
ある程度発言したところで、
きれいな方は「ありがとう」など感謝を表す言葉や気持ちを前向きにしてくれる言葉をかけたこと
汚い方は、人が傷つく言葉をかけたことを知らせます。
知らせたところで、生徒が何か言いたそうな顔をしていたら発言させます。
ここまでが導入です。
ここでちょっと話題を変えます。
人間が主に何からできているか知らせます。
その時、知っている生徒がいたら褒めてやりたいので、質問形式にします。
次に人間の体がほとんど水でできているならば、
他人に、気持ちが前向きになる言葉をかけたらどうなるか、
また、傷つける言葉をかけたらどうなるか、を考えさせます。
これは主要な質問の一つなので、挙手指名で発言させます。
次に言葉をかけた方の人間の体も水でできていることに気づかせます。
上の質問と同じように、言葉を発した方がどうなるか考えさせます。
一番重要な質問をします。
では、どういう言葉を普段使った方が良いか、また使ってはいけないか。
この時、少し周りの人間と話し合わせるのも良いと思います。
発表させて、まとめます。
多分このくらいで45分あるいは50分が過ぎます。
簡単に流れを書いただけなので、質問の言葉づかいや
タイミング、生徒に会わせた補助質問やしない質問は書き切れませんでした。
上の流れで通り一遍に授業を流すわけではありません。
生徒の状況に合わせて微妙にあるいは大胆に変えます。
今回は「人間関係を円滑に進めるためには」というテーマの一つとして進めます。
大切なことは、「何を教えるか」ではなく「何で教えるか」です。
つまり「水の実験」を教えるのではなく、
「水の実験」を通して「言葉づかい」の大切さを教えるということです。
投稿者 アンクルディノ : 2006年11月22日 06:29
何人かの方が書かれていることについてですが、
世の中、なぜそうなるのか分からないことがいっぱいあります。
例えば「火事場のクソ力」。あるいは部活の大会や体育祭などで
圧倒的に負けている時に誰かの一言によって気持ちが変わり逆転するということ。
なぜ、気持ちが前向きになると突如として今まで出せなかった力を出すことができるのか。
また、農作物にモーツアルトを聞かせると、成長が速くなったり
栄養価が増えたりすること。
この他にもきちんと説明できないけれども事実としてあることがいっぱいあります。
目に見えないけれども存在をしているものもたくさんあります。
例えば「愛」「恋」「友情」。
存在は知っているけれども、普段は間接的にしか感じられないものもあります。
人間にとっての「空気」。
証明できなかったり目に見えなかったりしても、存在するものは多数あります。
TOSSという集団については、不勉強なためあまり良く知りません。
ただ、間違えた時に間違えたといえないこと、失敗した時に謝れないことは
教員としては良くないですね。
今、公立学校は教科だけを教える存在ではないからです。
(教科だけ教えるのなら塾にまかせておけば良いのですね。)
人間としての生き方を教えるためにあるんです。
ですから、人間は間違えるし、そういう時にどう対処すれば良いかを
示してあげることが大切だと思います。
ご意見の中でどうもよく分からない点があります。
『「先生の為」であって「生徒の為」にはなりえない』というところです。
「生徒の為」にならないのは、意見としてよく分かります。
「先生の為」というのは、どういうことなのでしょうか。
なぜ、どういうころが、どういう観点で「先生の為」になるのでしょうか。
投稿者 アンクルディノ : 2006年11月22日 06:49
>アンクルディノさん
>火事場のクソ力
人が極限状態に陥ると潜在的な力が引き出されることがあるのは,事実です。しかしそれは生体がもともと持っている力であって,アンクルディノさんが想定されておられるような,超能力的な力発揮されるという話ではありません。
また副作用として,関節や腱を壊したりすることもあります。スポーツ選手なら日常的に経験しているはずです。
>農作物にモーツアルトを聞かせると、成長が速くなったり
栄養価が増えたりすること。
そういった事実は確認されていません。2,3点のサンプルでそのような結果が得られた話はあるようですが,サンプル数が少なすぎて統計的に有意ではなく,仕組み以前に,結果そのものに意味がありません。
>「愛」「恋」「友情」
これらに「存在」と使うのは,たんなる比喩表現であって,現象の「存在」とは意味合いが全く違います。
>「先生の為」というのは、どういうことなのでしょうか。
「水伝」授業は,「自分は良いことをしている」,「教師として役目を果たしている」と思い込みたい先生の為になります。
ようするに,教師の閉じた自己満足のためになっている,ということです。
投稿者 A-WING : 2006年11月22日 14:59
初めまして。
先日、こちらのエントリーについて、拙ブログで取り上げさせて頂き、トラックバックを送信したのですが、上手く送信されない様ですので、コメントにてお知らせいたします。
アンクルディノさんへ、
他の方々が、上で書かれていますが、水に良い(とされる)言葉をかける事によって、綺麗(とされる)な結晶が出来る、又、悪い(とされる)言葉によって、汚い(とされる)結晶が出来る、という話を聞いた子どもが、何を考えるかを、想像なさった方が宜しいかと思います。
その話を聞いて、それを信じたセンシティブな子は、そういう話など全然知らない人の言葉によって、深く傷付くかも知れません。テレビから流れてくる言葉によっても、自分の身体がどうにかなってしまう、とも考えるかも知れません。又、言葉に大きな力があると信じた狡猾な子どもは、気に入らない子に、わざと汚い言葉を投げかけるかも知れません。簡単に発する事の出来る、書く事の出来る「言葉」が、強力な武器として用いられる危険性があるのです。これが、いかに恐ろしい事であるかは、よく認識する必要があるのではないでしょうか。
>なぜ、どういうころが、どういう観点で「先生の為」になるの
>でしょうか。
上で、アイスストーンさんが書かれていますが、たとえ、水伝を用いた授業を行って、それが功を奏したとしても、その子ども達は、将来、そんな話など知りもしない人の集団に属する可能性が高い訳です。そういう場合に、自分が悪いと「思っている」言葉を使っている人に対して排他的になったり、何気なく発せられた言葉に深く傷ついてしまう等の、大きな弊害が考えられます。先生にとって、受け持ちが終わるまでクラスが纏まっていれば、それは良いかも知れませんが(「先生の為」)、それが、後々、悪影響を及ぼす可能性があるという事です。勿論、この場合、先生がどの様な気持ちで授業を行うか、という事とは、無関係です。
投稿者 TAKESAN : 2006年11月22日 15:07
>アンクルディノさん
>大切なことは、「何を教えるか」ではなく「何で教えるか」です。
つまり「水の実験」を教えるのではなく、
「水の実験」を通して「言葉づかい」の大切さを教えるということです。
そもそも最初の「水の実験」が間違っているのです。それをどう料理しようと、毒は毒です。「言葉遣い」の大切さを教えるのに、この程度のものに頼らなくてはいけない現状を憂えます。
道徳の授業で使用することは、絶対にやめるべきです。百害あって一利無しです。
反面教材としてなら、その限りではないと思いますが、伝える側にバランス感覚が必要になると思います。
アンクルディノさんの書き込みを読むと、やはり「先生の為」のものなのだと感じます。アンクルディノさんは生徒に及ぼす影響を深く考える前に、「水・・・」に頼ろうとしているように思えます。
地球上には、まだまだ解明されていない未知のことが数多くあると思います。しかし、科学を正しく理解することで、何が分かっていて、何がわかっていないかを知ることができます。分かっていないことを、あたかも分かっているように思うことは、科学を正しく理解している態度ではありません。未知の事象について思いを馳せるのは悪いことではないですが、その謎を解明するためにも、科学を正しく理解することが重要なのではないしょうか。
こんな世迷い言の為に、子供たちの未来を迷わせるようなことをしてはいけません。
上の方でも書いたと思うのですが。いじめのきっかけになるという考えにも同意です。その点についてはどう思われますか?
絶対に授業でとりあげるべきではないのです。
>A-WINGさん
アンクルディノさんへのコメントありがとうございます。
僕も草野球ですが、必要以上に力が出てしまって、自分の骨を折ってしまったことがあります。また、火事場のくそ力とは違いますが、先天的に痛覚のない人間は日常的に骨折をして、関節などが不自然に発育してしまいます。痛みによって制御していないと、動物はその身体を維持していくことも困難です。話がそれてしまいました。
モーツアルトで植物がという話は小耳に挟んだことぐらいしかないのですが、少なくとも科学の場ではまともに議論されたり、論文にもなっていないのではと思います。
もし、汚い言葉が悪影響を与えるのであれば、モーツアルトの音楽は最悪のものになってしまいます。彼ほど、日常的に汚い言葉を好んで使っていた人間はいないでしょう。
>TAKESANさん
初めまして、コメントありがとうございます。トラックバックがうまく受けられなくて申し訳ありません。また、ブログでご紹介いただきありがとうございます。
いじめる側にとっては、かっこうの武器と言えるでしょうね。非常に都合の良い理屈がまかり通ってしまいます。
水の結晶を、美しいものと汚いものに区別することこそ、人間の傲慢で浅はかな考えであると思います。
先生は、その子供たちの10年後、20年後までを思い描いて接しなくてはいけない、とても大変な仕事だと思います。だからこそ、こんなつまらないことで、間違ったことをしてほしくないと思います。
投稿者 corvo : 2006年11月22日 23:24
はじめまして。kikulogでのcorvoさんのコメントを見てやってきました。二児の父です。
現職の先生が教材としての魅力を感じてしまうお気持ちは痛いほどわかります。
下の子は、いま6年生です。確か4年前に水伝授業を受けました。授業をした当時の担任の先生とは、それ以前も今も、直接お話をすることがあります。とても熱心で真摯な方です。
それだけに、授業を受けた1年後にまだその話を覚えていて「お父さん、こんな話を知っている?」ととくとくと私に教えてくれようとする小学生の我が子に、「それは事実ではない」とどうやって伝えるか、かなり苦慮しました。
先生を否定せずに授業の内容の一部だけを否定するために、どういう話をしたかはもはや覚えていません。「先生だって間違えることはあるよね」という話をしたことは覚えています。最も覚えているのは、苦しかったという思いです。我が子はその先生を今も慕っています。私を嫌うようすもありません。しかし、一部であれ先生や授業の内容を否定したことが我が子の内心にどういう傷を与えたのかは、わかりません。
さらに翌年、その先生とその授業についてお話をし、「本で見たビジュアルに感動した」「授業で使えると思った」「事実かどうかは半信半疑だった」「本になっているのだし、授業に採り上げている方がいるので大丈夫だろうと思った」「自分自身が感動したことの方が、説得力があるだろうと思った」「植物の成長が音楽の影響を受けるといった話を聞いたことがあるので、こういうこともあるかもしれないと思った」といったお話を聞きました。
「科学的に正しくないことは、授業に使わない方がよかったですね」とおっしゃっていただいたので、「それだけが問題なのではありません。整った形は正しく、アンバランスな形は悪いという考え方は、人間に置き換えたときに大変に危険だと思いませんか」と申し上げました。私の指摘に対して、その先生は「その点には考えが及ばなかった」とおっしゃいました。
いま、6年生の我が子は一部の同級生に「キモい」などと言われることがあります。偏屈な私の子どもなので風変わりなところがあるのかもしれません。その同級生は、異質な子どもを嗅ぎ分けてはゆえなく批判し(たとえば発育がよい女児がVネックのセーターなどを着ていると攻撃対象にされます)、児童集団から排除しようと周囲に働きかけているようです。ですから、我が子だけがその攻撃を受けているわけではありません(それでも、べそをかいていた日もあります)。
こうした攻撃が水伝授業の影響下にあるものか、それとも水伝授業が無力だったということなのか、そもそもなんの関係もないのか、それはわかりません。こうした状況下ではむしろ「いまこそ水伝授業を」とお考えになる先生もおいでかもしれません。
しかし、水伝授業は、こうした攻撃に裏付けを与えかねないものだということは言えるでしょう。「その攻撃をする子どもにとってアンバランスなもの」は醜く、悪であるという思いを支える働きをしかねません。杞憂でしょうか。
私自身のブログに、この件に関連してこんな記事があります。
【Watch】世田谷区で「ゲーム脳」講演会(2006年03月09日)
http://3tkss.seesaa.net/article/14486515.html
【主張】ゲーム脳だの脳内汚染だのという話が困る理由(2006年03月09日)
http://3tkss.seesaa.net/article/14486525.html
川端氏のブログの記事に触発されて、「誤った考証に基づく指導は、なぜ困りものなのか」という観点で書いたものです。主にゲーム脳の話題を採り上げていますが、水伝についてもまったく同じことが言えると考えています。
長々と失礼しました。
投稿者 ダディ三鷹 : 2006年11月24日 06:50
はじめまして、kikulog経由で参りました。
アンクルディノさんがおっしゃる、「傷つけるような言葉を止めさせればいじめも自殺もなくなる」という論法に、強烈な違和感を感じます。
確かに、子供に「悪い言葉」を使うな、人に聞かせるな、というのは、一種のマナーの問題として言っておくべきことではあるでしょう。
しかし、たとえそうした言葉遣いを止めさせたところで、人間の悪意が消え去るわけはありません。もし言葉遣いを改善しても、今度は言葉を綺麗に繕ったかたちで悪意をぶつけるだけでしょう。大人の世界にはそうしたケース、よくありますよね。たとえばシカトなら言葉は不要ですし、なんならシカトの対象こそが「悪」であり、シカトの実施者は「善」ないし「正義」であると、それこそ「美しい言葉遣い」で宣言すればよろしい。
それくらいのことは子供でもやるでしょう。
率直に言って、「いじめ」的な悪意の発露はなくなることはないと思います。社会の中で生きる人間の本能のようなものではないかとすら思いますし、閉鎖的な共同体である「学級」では、それは簡単にエスカレートするであろうことも、想像がつきます。
共同体の中に軋轢が、あるいは「いじめ」が、生じてしまったとき、それを凄惨なものにしないためにどう振舞うべきか、それを子供たちに教育してやってください。
表面的に言葉を禁止して、「暴力や悪意がなくなった」と安心するなんて、事態の隠蔽以外の何ものでもないと思います。
投稿者 念波 : 2006年11月24日 11:35
もう少し書きます。
もし、教師が「正しいこと」を学級に宣言したとして、その「正しさ」からはみ出した人間が、それゆえに学級内で吊るし上げられた、といった場合、アンクルディノさんはどのように振舞われますでしょうか。
このケースで行くなら、「言葉遣いの悪いものを高く吊るせ!」という空気が学級内に醸成されてしまった場合です(なにせ『水…』の論法によれば、そのような存在は周囲の人間の体内環境を「汚す」、悪そのものなのですから)。このとき正義は吊るす側にありますから、汚い言葉などつかわずともターゲットを吊るし上げることができます。
単なる攻撃性や悪意の発露なのですから、教師の言っていることを本当に信じているかどうかはどうでもよいことです。吊るし上げる大義名分さえ手に入れば、正義の側に立つことによって相手(また、傍観者として振舞うその他の子供たち)の反論を封じ込み、好き放題に攻撃できる環境が整う可能性があります。
たとえば、河内弁を話す子供が他の地域の学校に転校してきたとき、逆に関西で関東の言葉を使ったとき、日本語の不自由な外国人の子供が、適切でない言葉遣いを繰り返したとき。どれも簡単には改善できませんが、学級の「正義」には反してしまいますよ。
どうも、アンクルディノさんのおっしゃる教育の方法論は、「一人の大人の生き方や考え方を生徒に見せてやるもの」には感じられません。
大人なら、生じた軋轢をどう解決するか、あるいはいかに緩和するか、また、「異なるもの(他人)」と共存するにはどうすべきか、それを見せてやるべきなのではないですか。
投稿者 念波 : 2006年11月24日 12:30
>ダディ三鷹さん
初めまして、コメントありがとうございます。
ゲーム脳については、川端さんのblogで話題になったときに、しばらくウォッチしていました。エントリーも拝見しました。ゲーム脳では追いつめられた親が、水伝では教師が、わらにもすがる思いで飛びついてしまったのでしょう。とても構図がにていると思います。
お子さんと教師の板挟みでご苦労されたのですね。
教師にとっても、生徒にとっても不幸だと思います。また、親御さんにとっても。
水伝授業の影響で「いじめ」が助長されたわけでもなく、無力だったわけでもないと思います。しかし、助長する材料には十分なりうると思います。ここに問題があると思います。
>しかし、水伝授業は、こうした攻撃に裏付けを与えかねないものだということは言えるでしょう。「その攻撃をする子どもにとってアンバランスなもの」は醜く、悪であるという思いを支える働きをしかねません。杞憂でしょうか。
杞憂ではないと思います。「水」に美醜の判断をしてもらうなんてナンセンスですし、アンバランスな結晶を醜いと断じてしまうことは、とても危険な考え方だと思います。
>念波さん
初めまして、コメントありがとうございます。
僕も「傷つけるような言葉を止めさせればいじめも自殺もなくなる」という考え方は、違和感を感じます。そういった部分もあるかもしれませんが、因果関係で結びつけるには根拠が薄弱すぎると思います。
「言葉」はあくまでもコミュニケーションの道具です。
僕は関西出身ですが、関東からの転校生が来ると、「なんや、女のしゃべる言葉みたいやな!」といって、皆でからかったものです。でも、しばらくすると転校生も言葉を覚えて、またこちらも歩み寄って、順応していきました。
昨今の報道を見ていると、学校は決まって「いじめ」の事実はなかったと報道します。そういった認識で、「いじめ」が起きてしまった困難な状況に対応しているとは思えませんん。
「いじめ」は人間の本能というより、動物の本能だと言えるかもしれません。身体の弱い個体はいじめられて、死に至ることもあるでしょう。それが種を保存していくための選択であるのかもしれません。
人間だけが「いじめ」をやめる事ができる能力を獲得したのだと思います。
そうであるなら、その能力を発揮してなくす方向に進む事が望ましいと思います。しかし、それが「汚い言葉」を使わなくなったからといって、なくなるものではないはずです。
投稿者 corvo : 2006年11月24日 23:29
はじめまして
だいぶ遅いコメントなので、どなたの目にも止まらないかもしれませんが。
アンクルディノさんが提案されていた「授業案」の内容は、TOSSの授業案そのものです。独立に考えつかれたのだとすると、なにかそういう授業構成にしたくなるような「物語性」を「水からの伝言」自体が持っているということでしょう。その意味では興味深いです
さて、「水からの伝言」授業が問題を引き起こした例はいくつも報告されています。
僕がきいた一番困った例は、授業内容をおかしいと批判した生徒が先生に怒られて教師不信に陥ったというものです。
ちょっと考えてみればわかるのですが、「水伝」授業のシナリオは、科学的に疑問の声を挙げる生徒がいると破綻するんです。だから、その時点で強引に進めるか、ごまかすかしかない。でも、小学校も中学年・高学年ともなれば、いろいろ知ってる子供はいますよ。
それも含めて、「水伝」授業の底に流れるものは「不寛容」なんですよ。美的感覚も道徳観も共有することを迫るものなんです。対称性のよい氷が誰にとっても「美しい」のか、それを考えるだけで、問題点はわかるはずなんです
ちなみに、この件でTOSSはきちんとした意見を表明するべきですね
僕も小学校の先生方と議論したことがあり、その時の配布文書を公開しています↓
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html
道徳教材としての主な問題点は網羅してあると思います
投稿者 きくち : 2006年11月27日 10:34
>きくちさん
はじめまして、コメントありがとうございます。
先日はkikulogへお邪魔しました。
この話題はまだホットなので、皆さん読んでいただけると思います。
僕も、TOSSの授業内容を調べて愕然としました(ほとんどのファイルが削除されていましたが)。まったくと言ってよいほど同じ内容でした。
現在の小学校教師の思考形態がこれほど似ているとすると、それはそれで問題があるように思いますが、どうなんでしょう。
「不寛容」は戦争にもつながることだと思います。多くの争いは根っこに「不寛容」が存在していると思います。それを助長する教材が、道徳の授業として適しているはずがありません。
僕にとってもっとも嫌悪感を持つ部分は、「美」について価値を押し付けられ事です。たまったものではありません。
配布文書、以前に拝見しました。これを読んでも気がつけないとなると、相当に重傷なのではと思います。
投稿者 corvo : 2006年11月27日 11:31
はじめまして。
個人的な考えで言えば、「水伝」を興味深いものだと思います。
『「水伝」を利用して利益を得ようとしている事』と『「水伝」から考察される事』は分けて考えたいと思っています。
「水・・・」と言う事で思い出されるのは、ジャック・ベンベニスト氏による、いわゆる「水の記憶」実験です。
僕は科学者でもないので実験も追試もやっていませんので、書物などで出されているものを読むだけですし、それらが正しいか正しくないかを証明できるわけでもありません。
その「水の記憶」実験などと「水伝」を絡ませて考えた場合、「水伝」に書かれている事も部分的に納得ができます。
ちなみに「水の記憶」実験も一応現在の科学界では「あり得ない事」「非科学的な事」となっていますが、どうもその経緯を知る限り、素直に頷けません。
量子論と相対性理論が相容れない部分があっても両者ともほぼ正しい様に、現在、田崎氏が言われるような「確立された科学」と「水の記憶などの非科学」とされているものの関係にもそういった考えが当てはまる日が来るのではないかと、少し期待しています。
「水伝」で気に入らない最大の部分は、音楽好きな僕としまして「クラシックはいい音楽だ」となっていて、名前は伏せられていますが、「パンクは酷い音楽だ」となっている事です。
クラシックは宗教音楽ともとれるわけで、排他的な、人種差別的な部分もあるわけです。
パンクだってロックだってうるさいけれどクラシックより素晴らしいと思えるもの(素晴らしい精神でやっているもの)だってあるわけです。
「ありがとう」「ばかやろう」ならまだ単純だと思います。
言葉自体(言う人の気持ちは別として)として「ありがとう」のほうが良いに決まってるのは田崎氏が使っていた言い回しで言えば
「誰でも知っている」(非科学的な言葉ですよね。)と思います。
もちろん本質的な事として、どんな気持ちで言ったかは重要です。でも音楽(いい曲でも演奏者が酷い心で演奏していたり、とか)よりはすごくシンプルな答えが出るものだと思います。
まあ、上に上げた様な事も含めていろんな場合の実験をして欲しいものだととは思います。
江本氏の実験はあまりにもステレオタイプなものが多すぎると思いますので。
実験結果の結晶の美醜の基準などにはそれほど江本氏に疑問があるわけではありません。
田崎氏は「美醜も趣味の問題」と言われてましたが、そうとは考えません。
「水の記憶」実験や上に上げた「水伝」実験も含めて、仮説をたてて考察するのも科学的な態度だと思うのですが。
一つの考え方では「科学の権威」こそ嫌悪するべきものだと思えるので。
投稿者 まさ : 2007年01月08日 15:34
パンクじゃないですよ、ヘビメタです。
音楽好きの僕からしらたらヘヴィ・メタルをパンクと同一にされるのは古生物学を考古学と一緒にされるくらいの違和感があります。もしヘヴィメタルを知っていて「ヘビメタ」とし「醜」に納めているとしたら、それは「美醜の基準」が狂っているとしか言いようがありません。
水の話には、例えばヘビメタに対する無関心さによる無知や、まるで誰かの受け売り宗教で好んで使われる「波動」という言葉や「水の記憶」実験をピックアップして作ったような印象が強いです。
「水伝」騒動で評価すべきは「科学者たちによる反論と啓蒙活動」(論座2月号より引用)で、いわゆる科学者のステレオタイプ(トンデモを陰で笑うだけ)の枠を超えて活動なさっている姿だと思います。
投稿者 アイスストーン : 2007年01月08日 19:45
失礼しました、記憶違いでした。
そうですね、評価すべきは「いわゆる科学者のステレオタイプ(トンデモを陰で笑うだけ)の枠を超えて活動なさっている姿」ですね。
しかし、科学者側に見下した感覚を受けるのは僕だけでしょうか。
僕は「水伝」を授業で使う事も悪い事だとは思えません。
丸ごと受け売りな授業をするのは如何なものかと思いますが。
世の中は「水伝」同様、またはそれ以上にアヤシイものが多数存在してますよね。
うまく言えませが、そういったトンデモを批判する人達の態度に嫌悪感を感じるのですよ。
投稿者 まさ : 2007年01月08日 22:29
えーと、ハッキリ書きますね。
「美醜の基準」が狂っているツールは道徳としてふさわしくない、と僕は思います。
「水からの伝言」まとめ
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2006/11/post_251.html
上記エントリーの僕のレスを見ていただければ参考になると思います。
>科学者側に見下した感覚
あると思います。僕でもありますから。
>嫌悪感
実は僕は、まささんに対して激しく嫌悪感を覚えました。音楽好きとは思えない知識、「美醜の基準」に対して。
あと、色々調べれば分かりますが、波動を良くする商品が沢山売ってますよ。確立された科学でもないのに、どんな論理で製造技術が存在するんですかね。
僕もガンが本当に直るなら、はやく科学的、医学的に証明されて全世界に普及して欲しいと願ってます。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=site%3Awww.masaru-emoto.net+%E3%82%AC%E3%83%B3&lr=lang_ja
投稿者 アイスストーン : 2007年01月09日 00:54
>まささん
初めまして、コメントありがとうございます。
ヘビメタの件については、アイスストーンさんがレスされているので、お任せしますが、クラシックについての「クラシックは宗教音楽ともとれるわけで、排他的な、人種差別的な部分もあるわけです。」という見解は、容易に受け入れる事は出来ません。僕自身がクラシックに造詣が深いわけではないですが、上記のような感想をお持ちであるということなら、どんな曲に関しての感想なのか知りたいです。
そういった面もあるかもしれませんが、それをクラシック音楽全般に当てはめてしまうのは、非常に危険だと思います。
>確立された科学」と「水の記憶などの非科学」とされているものの関係にもそういった考えが当てはまる日が来るのではないかと、少し期待しています。
「水伝」や「水の記憶」に関して言えば、期待されない方が良いでしょう。可能性は全くないと考えてよいと思います。
>「ありがとう」「ばかやろう」ならまだ単純だと思います。
言葉自体(言う人の気持ちは別として)として「ありがとう」のほうが良いに決まってるのは田崎氏が使っていた言い回しで言えば
「誰でも知っている」(非科学的な言葉ですよね。)と思います。
「ばかやろう」に比べて、「ありがとう」のほうが良いに決まっているとする根拠は何でしょうか。決まってはいません。言葉とはそんな単純なものではないです。あくまでも文脈の中で、それを発した人間同士の関係のなかで、その価値が決まるものです。
「ありがとう」のほうが良いに決まっているだろう、と僕に問われても「分からない」としか答えようがないです。
「誰でも知っている」と断定できることではないです。
実験結果の結晶の美醜の基準は、きわめて主観的なもので、なんの客観性もないものです。同じような主観をもった人たちが「美」に対して共感できる部分はあると思いますが、結晶の形が整っているから美しいという判断基準は、非常に外面的な捉え方であり、本質的な美の問題からは離れたものであると思います。
>「水の記憶」実験や上に上げた「水伝」実験も含めて、仮説をたてて考察するのも科学的な態度だと思うのですが。
そもそも「科学」でないものに、仮説をたてて考察することは不可能です。
>一つの考え方では「科学の権威」こそ嫌悪するべきものだと思えるので。
そうは思いません。権威を笠に着ることは批判されてしかるべきことですが、人類の叡智として積み上げられてきた科学の権威は、信頼に足る物であると思います。
むしろ、この権威を笠に着る手法をとっているのは「ニセ科学」のほうで、愚にもつかない学位や、経歴を利用して、いかにも科学的であるように見せかけています。
「「科学の権威」こそ嫌悪するべきもの」。こういった感想をもつことが、「ニセ科学」につけ込まれる隙を生むのではないでしょうか。
>しかし、科学者側に見下した感覚を受けるのは僕だけでしょうか。
>>科学者側に見下した感覚
>あると思います。僕でもありますから。
この点については、僕は感じていません。多くの研究者と付き合いがあることから、彼らについて好意的に感じていることも否定できませんが、真摯に研究に携わっている方というのは、非常に謙虚です。
この点でも「ニセ科学」のほうが、周到に謙虚さを装っているだけで、その実は極めて傲慢な論理展開のオンパレードです。
>僕は「水伝」を授業で使う事も悪い事だとは思えません。
丸ごと受け売りな授業をするのは如何なものかと思いますが。
これは絶対に容認できることではありません。
「水伝」を授業で使う事は悪い事です。道徳的見地からいっても、決して良い話ではありません。
>そういったトンデモを批判する人達の態度に嫌悪感を感じるのですよ。
繰り返しになりますが、そういった感想を持つ事が「ニセ科学」の蔓延を加速することになると思います。
菊池さんや田崎さんが、どれほど真摯な態度でこの問題に立ち向かっているか、感じる事は出来ませんか。
それに対して、「ニセ科学」を主張する側に杜撰さ、傲慢さを感じませんか。
批判という行為に対して真摯に取り組まれている科学者に対して「嫌悪感」を感じる「まささん」に対して、僕は嫌悪感を感じます。
投稿者 corvo : 2007年01月09日 02:57
>corvoさん
そうですか?僕は見下してますよ。
科学の観点ではなく、音楽、倫理、日本語の観点から見てリスペクトできる点が無いと思ってますので。
ちなみに、たぶん僕のコメントは科学の点に触れないで語ってる筈です、そう努めてましたので。
・音楽の点は省略
・倫理
これも何度も書いているけど、教師が「いじめと戦っている」から「水伝」を授業に使っていると主張しているが、「水伝=波動」の本を読む道徳授業などチマチマした事をせずに、波動水を全国の小学生すべてに飲ませればいい。それをしないのは何故なんだ?「いじめと戦っている」は単なる偽善か?
波動がインチキだからか?もしインチキなら、それを知ってて「水伝」を子供に教えているのか?
最近覚えた言葉で言うと、「水伝」道徳はPISA型読解力を下げるのではないかとすら思ってます。
・国語
↓参照
弓工房blog: 水からの伝言
http://yumikou.sub.jp/blog/archives/2005/10/post_151.html
>水の読解力の限界
>言葉をなめんなよ
僕の中で「ウォーターリテラシー」という言葉が生まれました。
投稿者 アイスストーン : 2007年01月09日 10:01
>アイスストーンさん
>そうですか?僕は見下してますよ。
アイスストーンさんに対しては、僕の読み間違いです。
アイスストーンさんが、「水伝」を見下している、ということですね。
そういうことであれば、僕も同意します。
日本の水道全てから「波動水」が飲めるようになれば、医療費の大幅な削減になるでしょうね。
投稿者 corvo : 2007年01月09日 10:28
>日本の水道全てから「波動水」が飲めるようになれば、医療費の大幅な削減になるでしょうね。
一万人以上の実績があるようです。
MBS [2006/03/24]イマ解き「“ニセ科学”に我慢できない科学者」(web archive)
http://web.archive.org/web/20060408153514/http://mbs.jp/voice/special/200603/24_2301.shtml
文中の「代替医療学博士」が気になったので、オープン・インターナショナル・ユニバーシティについて調べてみたら、波動注意報のサイトに行き着きました。
波動注意報 - 雑記帳
http://kxk.makibishi.jp/hado_nb.html
その他
List of unaccredited institutions of higher learning - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_unaccredited_institutions_of_higher_learning
Diploma Mill News: Credentials Arnett has claimed
http://diplomamillnews.blogspot.com/2006/10/credentials-arnett-has-claimed.html
投稿者 アイスストーン : 2007年01月09日 12:20
>アイスストーンさん
リンク先、ついつい読んでしまいました。面白いです。
うちにも昔、学位とれます、みたいなメールやダイレクトメールがきたことがあったような。
学生や研究者を傍目に見ているので、学位をとることがどれほど大変かということは理解しているつもりです。本来、並大抵のことではないです。
投稿者 corvo : 2007年01月09日 14:56
すいみません、ご挨拶をしていませんでした。
>アイスストーンさん
「水伝」の音楽に対する反応についての疑問はそんなに違わないと思いますが・・。
説明不足ですみません。
僕の言いたい事は、「水伝」の主張をそのまま受け取るのではなく、検証の意味を含めた仮設を立て、追試してみる事も大事なのでは?と言う事です。
「クラシックは素晴らしくて、ヘヴィ・メタはダメ」と言う主張をそのまま受け取るのではなく、ヘヴィ・メタの歌詞がダメなのか?歌ってる人がダメなのか?音質がダメなのか?と言った事をもう少し突き詰めていいんじゃないか、と言う事です。
>corvoさん
クラシック総てが「排他的な面がある」と言う事ではありません。
時代背景からして、当時の作曲家は貴族や上流階級に対する芸人的な面もあるわけで、要するに「王様賛歌」なものもあるわけです。動機が不純な曲もあると言う事です。
説明下手ですみません。
「ばかやろう」より「ありがとう」がいい言葉なのはどう説明したらいいのでしょう。
文脈によって意味合いが変わるのは確かですが、普通に考えて「ありがとう」が良い言葉だと思うのですが。
例えば、心のないロボットに「ありがとう」と言われるより「ばかやろう」って言われたほうが断然腹が立つと思います。
意味を理解できない子供が「ありがとう」と「ばかやろう」の二つの言葉を喋っていたら、「ばかやろうは使っちゃダメ」と注意しませんか?そういった単純な意味での言葉の話です。
だから、「悪意を込めたありがとう」や「愛情のこもったばかやろう」で試してみればいいわけです。
同じ言葉でも違う感情で言ったら(書いたら)どう変わるか、気になりませんか?
「ありがとうとばかやろうではどちらがいい言葉が断言する事はできない」と反論するより、実験してみるほうが科学的だと言いたいわけです。
自然科学をする者として、「仮設→実験→考察」はスタンダードなやり方だと思います。
実験結果の結晶に対する美醜に基準については、「結晶として成り立っているか」「結晶として成り立ってないか」で判断できると思います。
物としての体を成してるかどうか、か基準です。
「美醜」と言う考え方がダメなら「成立してるか、してないか」でもいいと思います。むしろ、そっちの方が判断基準として適当かと思います。
田崎氏の記事で一番信用ならなかった部分は「ホメオパシーはプラシーボと変わりない」と決めつけていた所です。
確かにホメオパシーは正当な科学から見れば認められていません。が、プラシーボよりホメオパシーのほうが有効だとの実験結果も出ているのに、そう断言してる事で「この人は決めつけの人なんだ」との認識を持ちました。
その部分が「科学者側に見下した感覚を受ける」根拠です。
普段からニュートラルな物の味方をしていないと感じます。
もちろんホメオパシー支持側にもそういった態度はあると思います。両者がそういった態度でいる限り、極論すればどちらも信じられないのです。
医学も科学として考えてもいいと思います。
現代医学(西洋医学、アロパシー)から見れば、ホメオパシーも鍼もその他現代医学ではないものは非科学的(解明されていない、根拠がない、西洋医学の考えに反する)だと言う事になります。
しかし、非科学的な治療でも症状の改善が見られる事は実例でありますし、そういった治療も一定以上の信頼を得ているではないでしょうか。
僕は「水伝」で授業をするのも、やはりありだと思います。
大変興味深いものですから。しかし僕がやるなら「これは科学的事実だ」とは言いませんけど。
前に言ったように、「水伝」の主張をそのまま受け売りでやると言う意味ではありません。
そもそも、人間の心と密接に関係すると思われる脳の研究は完全に終わっていないどころか、未知な部分が多数残っています。
その研究を進める上でも、「水」はなにか一つのアイデアになるんじゃないかと思います。研究する価値はありそうな気がします。
「水伝」授業批判者の理論で言えば、どんなものでもイジメに繋がる様な気がします。
投稿者 まさ : 2007年01月09日 17:21
えーと・・・。
僕はなるべく「水伝=波動水が正しいならば」という論理で書いているつもりなのですが・・・。正直、正しいと主張しているものに実験なんてまどろっこしい事は求めてないです。というか一万人以上もの病気を治した事実は間違いなんですか?正しいんじゃないですか?
「水伝」教育の目的は、倫理云々ではなく、いじめの延長線上にある自殺者を減らすためのツールだと思ってます。でもそれよりも効果的に自殺を減らしたいなら、能書き以前に実践が大事なんじゃないですか?まさに「論より証拠」ですよ。
それなのに何故、学校は「水伝」に掛かるプロダクツ=波動水に手を出さないんですか?自殺するかもしれない子供の命よりも高価なんですか?澱んでいる水を絶えず奇麗にすれば、精神状態は常に良いレベルが維持できるのと違うんですかね?学校が本当にお金が出せない言うんだったらいい方法があります。クラス全員でペットボトルに「ありがとう」、それを1人で飲む。30人くらいの波動が詰まった水なんて飲んだら、自殺する子もいなくなって、今の時分だったらインフルエンザで学校を休む人なんていなくなるんじゃないですか?学級閉鎖が無くなれば授業も遅れなくて学力が上がりますよ。生徒が毎日30回ありがとうと言うだけで自殺者が減るなら幸せですね。どこぞの主婦が米でカビの検証すっるよりも遥かに現実的だと思うんですが。そういえば、「尿療法」でも波動水を飲むのと近いという説もあるようです。「ありがとう」言いながら排尿したものを結晶にしたら、一体どんなふうになるんでしょうね?
何故僕が「見下している」と書いたか分かりますか?水伝教育に肯定的な教師に対する行動力に対してですよ。波動水が素晴らしいものなら迷わず導入すべきです。全生徒が波動水を飲めばいいんです。先生、本当に信じているんですか?ウソだと思いながら、答えの出てない曖昧なものに少ない授業時間を使っているなら、それってどうなの?ただでさえPISAショック言われて大変なこのご時世に勿体無くないですか?と。
正直、小学校教師は科学者にいいようにやられ過ぎです。論理で負けて「トンデモを批判する人達の態度に嫌悪感を感じる」のであれば、より現実的な実践をすればいいだけだと思うのですが、どうでしょ?
投稿者 アイスストーン : 2007年01月09日 18:51
アイスストーンさん、僕へのレスなんでしょうか?
何かかみ合っていないような気がします。
波動水なるものは、僕はよくわかりません。
察するに、「ありがとうと言ってキレイになった水」だと思いますが、そもそも元から体内にある水分子に言えば済む(もっと言えば、ただの言葉だけでなく実感のこもったありがとうなどの言葉。なのでただなんの意味もなくありがとうと言うだけでは意味がないと個人的には考える。そう考えれば別に水うんぬんを考える間でもなく当たり前な話だが)問題で、逆に言えばどんなキレイな水を飲んでも、その個人の環境が変わらなければ、体内に取り入れたキレイな水でもいずれ汚くなるだろうと考えます。
僕(僕は教師ではありません)が授業で取り上げるのに肯定的なのは、その現象(事実かどうかはわからない)が非常に興味深いことで、もし事実かもしれないと言う事であればそこからいろんな仮設が思い浮かぶからです。
具体的に言えば、僕はこの現象を事実だと押しつける様な事はしません。
僕が上に挙げたようないろいろな実験(違う感情で同じ言葉を書いたり言ったりしてみる)で期待する様な結果が得られないかもしれないし(それはそれで個人的には問題ない)、個人的には期待した結果になったとしても、生徒が「これは偶然だ」「これはあまり意味のない実験だ」「この実験の結果を心と結びつけるのは危険だ」などと意見が出れば、それを否定したりするような事は言いません。僕には事実かどうかを断言する事はできないからです。
しかし、「人間の大部分を占める水が、こういった感情で変化する可能性があるなら、悪い言葉はできるだけ使わないようにしたい」「言葉、もっと言えば祈りとも言える様な気持ちが相手に少しでも伝わると言う可能性も考えられるかもしれない。普段の気持ちの持ち方に気をつけたい」などの意見が出れば正しいと肯定する事はできなくても(何度も書いてしまうが、事実かどうかは僕に判断する事はできないから)素直に嬉しいと思う。
この授業(水伝を扱った授業)自体は、決して悪いものだとは思わないし、理論だけでなく最終的には実感しない事には身に付かないのはどんな道徳的授業であっても同じだと思います。
どんな授業にも「狙い」が存在するなら、僕がこの授業をする狙いは「心は(簡単ではないが)通じ合う事ができる」と言うところに持っていきたい。
平たく言えば、「思いやり」「愛」「優しさ」「共感」の素晴らしさだ。
もちろんそれらを定義する(愛とストーカーの境界は?など)のは簡単ではないし、これも個人個人で実感してもらうしかない。
繰り返しになりますが、こういった事を教えたいと思うのは、普通の道徳教育となんら変わりないと思います。
その点、現在での授業の使われ方が「お水様にお伺いを立てる」と言う所で止まっているなら、それは非常に残念なものだと思います。
投稿者 まさ : 2007年01月09日 20:05
>まささん
率直申しまして,あなたは卑怯です。
しかもそのことに気付いておられない。
自分には判断できない,科学に疎いから等と,自ら社会にコミットするリスクから逃げておきながら,子供たちにはなにがしかの判断をさせようとする。
ご自分が判断できないことを,同年代や年上の人間ならともかく,明らかにあらゆる面で自分より未熟であるはずの子供に求めるとは,いったいどういう良識の持ち主なのかと,憤るばかりです。
正月早々,ひじょうに不快です。
投稿者 A-WING : 2007年01月09日 21:13
>A-WINGさん
そのご意見は真摯に受け止めたいと思います。
子供の授業には不向きだと言うのは、もしかしたらその通りかもしれません。
しかし、反論もさせてください。
「僕が判断ができない」、と言うのは僕はそうだと信じていても、科学的事実として認められるものと断言できる事ではないと言う事です。
それはどんなに優秀な科学者でも自分の判断だけで決めれる事ではないと思いますので。
あくまでその時点では1つの仮設に過ぎないと言う意味です。
それに、自分が判断(結論を出せないもの)できない物を授業で取り上げるのはズルいとは思いません。
「みんなで考えてみよう」とする授業もあっていいんじゃないかと思います。
投稿者 まさ : 2007年01月09日 21:50
今晩は。
まささんに伺いたいのですが。
素朴な疑問ですが、
>「悪意を込めたありがとう」や「愛情のこもったばかやろう」
>で試してみればいいわけです。
これを、どうやって確かめるのでしょうか。「試してみればいい」と簡単に仰いますが、「悪意」や「愛情」を、どう測定するのでしょう? 又、言葉に感情が乗っているという事を、どうやって調べるのでしょうか。自然科学は、価値判断を捨象する事によって、現象を客観的に記述する学問です。心理学にしても、感情等を測定可能な尺度として、定量的に把握する訳です。ですから、「感情がこもっている」言葉だという事を、観察可能なかたちで論証出来なければならないのです。
>「結晶として成り立っているか」「結晶として成り立ってな
>いか」で判断
この場合も、「成り立っている/いない」という概念を、予め定義しなければなりません。仮にそれをしたとしても、与える言葉についても定量化しなければなりませんから、同じ事ですが。
水伝は、言葉の意味が作用するという説ですが、語形(音声や形状)と語義(言葉の意味)は、必然的な結び付きを持っている訳ではありません。水伝は、「阪神優勝」という字を貼り付けても、整った結晶が出来る、と言っていますが、そこに、根本的なおかしさを、感じられないでしょうか。
水伝は、相手の感情・認知を斟酌する事無く、綺麗(と主張する)な氷が出来た「から」、よい言葉を使おう、という説です。そして、それが科学的に確かめられたと、江本氏らは言っているのです。
水伝を教育現場に持ち込んではならないというのは、こちらのコメント欄で、皆さんが指摘されている通りです。全く容認出来る事ではありません。
投稿者 TAKESAN : 2007年01月10日 00:24
レスが遅くなりました。
>まささん
アイスストーンさん、A-WINGさん、TAKESANさんが、かなりの部分を代弁してくださっているので、繰り返しになる部分は省きます。
>「ばかやろう」より「ありがとう」がいい言葉なのはどう説明したらいいのでしょう。
文脈によって意味合いが変わるのは確かですが、普通に考えて「ありがとう」が良い言葉だと思うのですが。
「ありがとう」は感謝の意を表す言葉として、適当なもののひとつであると思います。ただ、「ありがとう」という言葉だけを取り出して、良い言葉であると断定することは出来ません。
それよりも「感謝の心を忘れないようにしましょう」と、子供たちに教える事の方が大事ではないでしょうか。
「ばかやろう」「ありがとう」だけを比較して、よりどちらのほうが良い言葉だと定義することは、全く乱暴であり、僕には理解できないことです。
>例えば、心のないロボットに「ありがとう」と言われるより「ばかやろう」って言われたほうが断然腹が立つと思います。
意味を理解できない子供が「ありがとう」と「ばかやろう」の二つの言葉を喋っていたら、「ばかやろうは使っちゃダメ」と注意しませんか?そういった単純な意味での言葉の話です。
「単純な意味での言葉の話」という点が、どうもよくわかりません。「ばかやろう」を使っちゃ駄目だという時に、その言葉がどういう意味を持っていて、どういうときに使われるのか、また「ありがとう」のときも同様の説明が必要だと思います。そうでないと言葉を覚えないでしょう。
まささんはまさか、この世から「ばかやろう」という言葉なくなればいいとはおもっていないでしょうね?
「ありがとう」と同様、「ばかやろう」も日本語にとって大切な言葉の一つだと思います。
「水伝」はどう考えても、良い話ではありません。
科学的部分を取り除いても、決して美しいファンタジーでもなければポエムでもないです。
「言葉」に対する冒涜であり、「人間の尊厳」を否定する、江本氏の自分勝手な主張でしかないです。
そんな話が学校教育で使われる事があってはいけません。
まったく容認することはできません。100%排除されるべきです。
>どんな授業にも「狙い」が存在するなら、僕がこの授業をする狙いは「心は(簡単ではないが)通じ合う事ができる」と言うところに持っていきたい。
平たく言えば、「思いやり」「愛」「優しさ」「共感」の素晴らしさだ。
もし、そういったことを伝えたいのであれば、もっとも不適当な題材が「水伝」です。
わざわざ水を媒介にしなければ、教えられないのでしょうか。
科学者の態度に対して不信感があるというならば、直接、田崎さんや菊池さんに問い合わせてはいかがでしょうか。
両者ともにサイトを公開しており、メールでの連絡をとることも出来るでしょう。菊池さんはblogも運営しており、常に活発な議論がなされています。
科学的見地に突っ込みをいれるのであれば、そのほうが得策だと思います。
ただし、専門家にたいして反論をするには、それ相応の覚悟は必要だと思います。
http://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2006-12-13-2
専門家について、端的に書かれています。
僕は表現者の端くれとして、「水伝」はまったく容認できません。
学校教育で使うなど、もってのほかです。
投稿者 corvo : 2007年01月10日 04:27
>まささん
じゃあ波動水は止めましょう(笑)。
で、聞きたいのですが、そのまささんが掲げている論理で授業が進んでいるんですか?進んでませんよね?それは単なるまささんの理想論であって、批判されている「水伝」道徳とは合致してません。
「水伝」の道徳は
・人間は70%が水
・「ありがとう」で体の水が奇麗になる、体にいい「ばかやろう」で体の水が汚くなる、体に悪い
・奇麗な結晶、汚い結晶(若しくは結晶にならない)の例を見せる。
・「ありがとう」と言おう「ばかやろう」は止めよう
という言葉遣いについての結論付けと指導です。
僕が言っているのは、もし上記の論理について本当にそう思っているなら一歩進んで実践しましょうと言っているのです。例えば30人で1人に対して「ありがとう」。これで体内の水は良くなると思いますよ。家で悪い事があって体内の水が悪くなっても、学校で「ありがとう」と言われれば浄化される、みんな喜んで学校に来ますね。不登校もなくなるんじゃないですか?
「水伝」の著者、江本先生は「ありがとう」でガンも治ると仰ってます。そんな「ありがとう」パワーですから、みんないつも健康になれますね。そうやって実績を出せば、態度に嫌悪感を感じるトンデモを批判する人達すら黙らせられます。
ただ「水伝」の道徳を本の世界だけでなく実践するだけです。
教師がダメなのは本読んで終わりだから。誰かが用意したツールから発展しているように見えない。だから目立った実績を誇る事も出来ず、科学者たちのキャンペーンに対して対抗策を持てない。見てて物凄くもどかしい。
教育ってそういうものじゃないでしょ?実際に行動しトライ・アンド・エラーをし、成果を出していくものです。それが腹立たしい。お前ら本当に「水伝」信じてないんちゃうんかと。
僕から見たら、教師の姿勢は科学者たちの真摯な姿勢に劣って見えます。
投稿者 アイスストーン : 2007年01月10日 08:36
と書きましたが、僕のも一つの理想ですね、まささんと同じで(笑)。
まささんは「水伝」教育は主に誰をターゲットにしているかご存知ですか?確か小学校低学年向けだったと僕は解釈してますが。
短い授業時間の中で、僕の理想論と、まささんの理想論はどちらがシンプルで明快で効果があると思いますか?元々「水伝」はシンプルかつ明快なモノだから普及したんじゃないかと思うですがね。
まさか、まささんは水について年次テーマでやれと仰っている訳ではないですよね?随分と本来のツールよりも複雑に解釈しているようにも見えますが。
投稿者 アイスストーン : 2007年01月10日 08:42
>まささん
>科学的事実として認められるものと断言できる事ではないと言う事です。
水伝の理屈は,すでに科学的に否定されています。
一人の優秀な科学者の判断ではなく,これまでの多くの科学者による水を用いた実験結果や,あらゆる物の製造工程が,それを証明しています。
「水は言葉を理解する」という理屈を,世にあまたある水に関わる事象に当てはめようとすることがどれほど無理のある話であるか,まささんにも想像できるでしょう。
もし水伝の理屈が事実なら,我々人類どころか全ての生物,いやこの世界自体が,何億年もの間,「奇跡」よりももっと確率の低い「超奇跡」とでも呼べる事象だけを偶然にも選択し続けて現在に至っていることになります。
現実というものを素直に俯瞰した時,水伝などは検証に値しないクソ理屈であることがお解りになるんじゃないでしょうか。
また,「心は(簡単ではないが)通じ合う事ができる」という結論に持っていくには,「水伝」は明らかに不適切です。
なぜなら,そのような話に持っていくためには,水伝が科学的事実でなければなりません。しかしそうではない。これが何を意味するか。
つまり,水伝を道徳授業に用いた場合,水伝理論の破綻は「人はわかりあえる」という結論の破綻につながるわけです。
それは教師への不信と大人への不信を養い,社会への冷めた(「覚めた」ではありません)物の見方を養うとは思いませんか。
子供たちは,馬鹿ではないとは言いませんが,見る目と聞く耳はもっています。「こいつらは子供のご機嫌取りをしようとしている」と見なされるようなことは,厳に避けるべきです。
ウケればいいというものではりません。
投稿者 A-WING : 2007年01月10日 10:18
皆さん、僕のコメントにレスをくださってありがとうございます。
皆さんの意見を聞いた上での僕の意見を少し箇条書きにしてみたいと思います。
・僕のやろうとしてる授業は小学生には不向きで、大学の研究所でやったほうが適当かもしれない。
・水伝で書かれている事は現在の科学的事実とは相反するものである。
・「水伝」に書かれている事の一部は興味深いものであると思う。
・もっと詳しく突っ込んだ研究を見てみたい。
文章下手ですみませんが、大体こんな感じです。
その上で皆さんにご意見したいと思います。
>TAKESANさん
確かに自然科学は客観的な記述がでないないとダメですね。
その点で言えば、僕のやりたい事は科学ではないかもしれません。しかし、そういった実験は可能だし、やってみる価値はあると思います。
精神が物質に影響を及ぼす事で言えば、プラシーボもそのような面があるのではないかと思います(プラシーボの科学的解釈がどのようになっているかはわかりませんが)。
結晶の成り立ちに関しては、相違と言う事でも構いません。
Aの時にはBになり、Cの時にはDになると言う事が得られたなら、一つの法則と見る事ができるのではないでしょうか。
阪神優勝でキレイな結晶ができるのはおかしな話です。
それは「音楽を聴かせた時の水伝で書かれている結論には疑問がある」と最初から思ってますし、書いています。
だからより詳しく知りたいのです。
その結果、全くのデタラメなのかもしれないし、それとも新たな考察
