« PIT PARTY! | メイン | リンコサウルス05 »
2006年09月26日
美術教育の犠牲者
インターネットという空間ではポジティブであってもネガティブであっても、自分が思いもよらなかったり考えもしなかった意見を目にすることが時々ある。僕にとって非常に興味深いことや、胸元を掻き回されるような、色々なことがないまぜになって無造作に公開されている。
今日、以前から美術教育関連でお世話になっている山崎先生の管理する掲示板になかなかショッキングな書き込みがあった。僕も書き込んでおり、ディテールについては掲示板を読んでもらったほうがよいので、ここでは細々したことは省きます。
何故、このことを取り上げたかというと、自分自身が「美術教育の犠牲者」であると思っている方は、どれぐらいいるのだろうかということを知りたいからです。僕自身、美術教育の端っこのほうで関わっている者として、非常に興味深いです。
僕は美術教育によって救われたという思いが強いです。地方の進学高校に進みましたが、数学に力を入れていた母校では完全に落ちこぼれました。普通大学への進学からドロップアウトした僕は、教師から見ればお荷物でしかない、そんな存在だったと思います。特に数学のできない人間は肩身の狭い思いをしていました。そんなこともあって、数学への興味を失い、努力もしなかったので、出来るようになるわけがなかったのです。
でも、今では自分の勉強が足らなかったことを後悔し、分からないなりに数学への興味を持っています。
そんな僕にとって「自分は美術教育の犠牲者だ」と言い切れる人物がどんなことを考えているのか、興味があるのです。
しかもこの方は、自分の子供にも絵は描くなと教えているらしいです。自分と同じ苦しみを味わせたくないという理由からだということです。
このblogには、お子さんを持つ親御さんも多数来ていただいていると思います。
気軽にご意見をコメントしていただければと思います。
![]()
![]()
投稿者 corvo : 2006年09月26日 03:40
コメント
僕は、本を読むのが好きで、昔の人の文化、暮らしなどに非常な興味を持っていました。でも、僕の学校の古文の先生は、たんたんと、古文のルールを伝え、古文の現代語訳をおぼえさせるだけの人でした。
理屈屋の僕は、物事の外郭から理解しないとすまないたちで、古文の中に広がる、時代背景や作者のこころを知りつつ学びたかった。しかし、授業は違い、古文が好きではなくなっていました。嫌いな授業は苦痛でしかなく、テストで点が悪ければ、さらに追い討ちをかける悪循環です。
今となっては、もし、いい先生にであっていたらと思い、古典を独自に学びなおしたいとも思ってはいます。
先生次第で、生徒の興味は大きく変わることがあるという前提を言いたかったのですが、本質は「美術という本人のセンスが問われる授業が必要か?」とのことだと思います。
スポーツも勉強も、ほかの授業も同じようにセンスというものがあり、個人個人、合っているものは違うと思うのです。掲示板で書き込まれた方は、美術の先生との出会いがよくなかったこと、ご自身が美術にフィットしなかった。ということが重なったことが不幸なことだったのだと思います。
学校の授業は、評価というものが関わってくるので難しいかもしれませんが、教育現場は、個人の興味や自分のセンスがフィットするものを探せることのできる場であってほしいと思います。それは、生徒側の意識も含めて。
そう考えると、親が子どもの可能性のひとつを、自分の体験から閉ざしてしまうのはかわいそうかもしれません。
「先生」という権限は、他人を、特に多感な世代を評価するということについて、その人の人生の一部を評価しているという認識を持ってもらいたいものです。
個人的には表現の場で仕事をしているので、美術は好きだし、高校の先生の「わけわからん絵だが、それはそれでいい」ということばは、うれしくてよく憶えているます。ただ、この分野、好き嫌いというか、必要不必要という観点で考える向きが多いかと思います。
投稿者 たか : 2006年09月26日 08:37
難しいですね。
自分自身が犠牲者とは考えてはいませんが、学校での美術教育というものに
期待しなくなったということがありますね。
高校は進学校と呼ばれる部類らしいのですが、美術の教師は名物とされる
所謂生徒全般に人気のある先生でした。
「自由」というものが授業の方針のようでした。
ところが、美術好きな人間にとっては自由のない授業でした。
たとえば、油絵
「モチーフの色が実際の物と違う色でもよいので自由に描いてみてください」
麻袋が紫だったりすると喜ぶわけですが、、、
自分で描きたいと思って実際の色に近い色で描くと不況を買うわけです。
「実際の色を使わずに」この条件で無い限り、写実的な色も可能なはずですが
気に入らないわけです。
この様な方針は部活でも通り、結果辞めていくという人間もいました。
美大に行くつもりだと聞いていたのに、その路にも進まずに。
皆と違う事をすると、評価されない義務教育時代の美術の時間
教師の好みに合わないと、個人の感性が通らない授業。
これらの義性で美術に興味を無くした人は少なく無いように思います。
長広舌で失礼しました。
投稿者 SIVA : 2006年09月26日 08:40
自分は美術という面では、一般的な中学校までの美術教育を受けただけ(高校は、音楽・美術の選択制で私は音楽を選択していました)のごくごく一般人です。美術の授業が役に立っているか、と言われると難しいところですが、落書き程度の絵を描くことは好きですし、絵を鑑賞することも好きです。
絵のうまい人が偉いとも、描けない人が偉くないとも思いませんが、うまい下手は別にして、絵が描けることは楽しいことだと思います。自分が何かを見た・感じたものを、絵と言う媒体で表現できることは、その人にとって幸せなことだと思います。もちろんその媒体は、絵でなくても、音楽でも、文章でもかまわないわけですが、表現できる幅を広げるという意味では、子供のうちからいろいろな表現形式にチャレンジさせてみるというのは、いいことではないかと思います。
私は小学校時代の美術(小学校は図工っていうんですよね)の先生に、「この子の作品はエネルギッシュなんだよね」と言われたのが、未だに心に残っています。自分の絵は、基礎も習ったわけではありませんし、お世辞にもうまいとはいえませんが、そういってもらえたことで、絵が好きになっていったのではないかと思います。
長々と感想ばかりで失礼しました。最近は、自分の子供の絵の進歩を楽しんでいます(笑)。
投稿者 眉 : 2006年09月26日 09:07
美術を専門に勉強して、今は子どもをもつ親として・・・
それでもやはり芸術を学び、表現する時間は必要だと思いますよ。
それは、子どもは理性が育つ思春期くらいまでの間は
本能、感性の世界で生きていて理屈では動かしようのない性質のものだから。
(シュタイナー教育ではそう定義されたと思います。)
走り回るだけで楽しいなんて、大人ではありえませんけど
子どもは何もおもちゃがなくとも、あっちへうろうろ、こっちへうろうろするだけで遊びになります。
言葉はいらない。身体を動かし、手を動かすことで感情も育っていくのです。
というより、そうでなければ感情は育ったない。
いくら絵本を読み聞かせようが話して聞かせようが、理性で感情というのは育つものではないです。
そういう意味では学校でやってる「命の大切さ」を訴える教育のナンセンス・・・おっと話がそれました。
その延長で「絵を描く」ということは自然発生する行為だと思います。
それを親の方針だからといって、学校に上がるかあがらないころから不要だと切り捨て洗脳するかのように抑制するのはどうかな。
まぁ別にやりたがらなければやらせる必要はないですけど。
それでも集団で、同じような表現行為をして、それを互いに比較しあって何かを感じるという時間があってもいいと思うのです。
作文や歌、運動の時間は不要でなくて、なぜ絵は不要?
そして、自分が苦労させられたから「するな」と止めるのは
自分が勉強できなかったから子どもには苦労させたくないと
早期教育に走る親とスタンスはなんら変わらないのではないと思います。
やめろ、といったって子どもはやりたいと思えばやるんでしょうし。
そうなったとき、この方はどうするのかなぁ。
ただ・・・おっしゃりたいこともわかります。
美術の教育のあり方に問題がないわけではない。
私自身、子どもが幼稚園に通うようになって「お母さんの顔」を描いてきたとき驚きました。
ちゃんと目と口があって、ちゃんと肌色と黒と赤を使ってて顔に見えたから。
入園前には、色使いなんて教えたこともないし、丸だの三角だの描き方も教えたことがなく、線を引っ張る、ぐしゃぐしゃ書きなぐる・・・程度にしか描けなかったのに、いきなり『顔』です。
周りの友だちからの相乗効果というのもあるかもしれませんが
幼稚園でいろいろ教わってきたんだなぁと思いました。
型にはめられた「お絵かき」の作法というのがあるのでしょうかね。「顔」らしく描けてないと親からクレームがくるのかなぁなんて勘ぐりも。
(こういってはなんだけど、あまりにも普通の「顔」にちょっとがっかりしてしまった・・・冒険のできる子ではないので言われたとおり描いたんだろうなぁ)
こういう型にはまれなかった子どもにとっては確かに苦しい時間だと思います。
つい長々と失礼しました・・・
投稿者 しるく : 2006年09月26日 10:12
>たかさん
先生との出会いは重要だと思います。でも、小学校、中学校、高校では自分からは選べない。大学であれば、どんな研究をしているとか、どんな業績があるとか、自分にあった先生を選んで受験をすることも可能ですが、特に義務教育ではそうはいきません。
逆に好きな先生だったのだけど、授業が楽しいばかりで頭に入らず、成績が悪かったなんて学科もありました。
今思うと、自分の心がけ次第なのだけど、10代のガキにそんな成熟した判断力はなかったです。
>「美術という本人のセンスが問われる授業が必要か?」
ここは重要ですね。センスを問う部分があっても良いのだけど、その領域は極力少なくするべきだと思っています。努力すれば達成感を得られる領域があれば、そんなに嫌悪するほど嫌になることはないかもしれません。
他の教科にも言えることだと思います。
教師というのは、本当に難しい職業のひとつだと実感します。
絵の好き嫌いが仕事の上でも俎上にのることがありますが、これだけで進んで行くと、結果分けの分からないものになってしまうことが多々あると思います。
美術の授業は、論理的に物事を考える上でも大切なものだと思っています。
>SIVAさん
おっしゃることよくわかります。「自由」と言ってしまうと「センス」を問われる領域が増えて「不自由」になるし、「自由」と言っておきながら自分の望む方へ誘導しようとして、結果「不自由」になってしまうし。
学校の授業のひとつとしては、いろいろな点で難しい教科だと思います。
教師の努力不足で、嫌いになってしまった人が多いのも頷ける話です。
>眉さん
自分が世界を見て、それをどうやって表現するか。その方法には音楽があったり、文章があったり、絵があったり、するのだと思います。
絵が上手く描けなくても、良く観察することや、綺麗なものに感動する心を育てることは大事なことだと思います。
そんな機会まで奪ってしまうことは、決して良いことではないと思います。
どんなに時間がたっても、先生の言葉というのは残っているものなのですね。
僕自身も気をつけなくてはいけないと、反省することしきりです。
長文のコメントも大歓迎ですので、気軽にコメントお願いいたします。
投稿者 corvo : 2006年09月26日 10:25
>しるくさん
全ての人が美術教育を専門に学ぶわけではないですから、ものすごく苦労してデッサンを描けるようにならなくてもよいし、美術史を勉強する必要もないと思います。でも、子供って放っておくとなにかを作っていたり、描いていたり、歌っていたり、走り回ったり、言葉を獲得する前や、その過程でいろいろな表現を試して感情の出し方を覚えていくのでしょうね。
絵を描くことや、歌ったりすることを制限することのほうが、子供に対してものすごく困難なように思います。
>美術の教育のあり方に問題がないわけではない。
そうなんですよね。いまだに多くの問題を抱えていると思います。
いきなり「顔」ってのもすごいですね。僕は多分描けなかったと思います。自分の興味のあるものしか描かなかったし、描くことに関しては頑固で素直ではなかったかもしれません。
型にはまるのも苦しいし、はまらないのも苦しいし。
難しいですが、ここで思考停止に陥らずに考えていきたいと思います。
長文も大歓迎です。
投稿者 corvo : 2006年09月26日 10:38
話題がそれてしまうかも知れず恐縮なのですが、先日息子(4歳)の保育園であった一件を思い出しました。
「みんなで育てたひまわりの絵を描こう」ということで、皆でそろって絵を描き始めたそうですが、ひまわりの横に、大好きなトリケラトプスの絵を描いたわが息子。周りの友達に「えー」と言われ、泣き出したそうです(笑)。後で聞いてみたら、「トリケラトプスもひまわり見にきたんだよ」と、述べていました。
特に先生にとがめられたわけでもなく、周りの子供も、先生が言ったものと違うものを描いたということで、悪気なく「えー」と言ったのでしょうが・・・。
とりあえず息子には、そんなことで泣く必要はないし、絵は自分が思ったものを描けばいいのだ、と言いました。でもひょっとして、この先小学校や中学校に行くと、こういう行動は、気に入らない先生とかもいるのかも知れませんね。
投稿者 眉 : 2006年09月26日 11:59
具体的にどういう「犠牲者」だったのか、文面から推測するしかないんですが・・・この方の美術担当教師は絵が上手い生徒と、それ以外の生徒たちとの線引きを画一化した目で見て、ハッキリさせ過ぎたんでしょうかね?
で、その教師は絵が上手い生徒を可愛がり、それ以外の生徒たちには厳しく接した・・・それがこの方の苦痛だったのかと。
確かに画家は「先生」と称され、絵画展で賞を取った画家は賞賛されます。それを鼻にかける画家も多いですし、昔取った賞の栄光を忘れられない人も多いでしょう。えてして、こう云う人たちは確かにエリート意識が強い人が多い・・・この方の美術担当教師は、どちらかと言うとこのクチじゃなかったのかな?と思っています。
きっと巡り合わせが悪かったんでしょうね。
だからと言って美術教育は不必要と言うのはどうでしょう?
絵画や彫刻が出来ないからと言って、それは極端だと思います。
絵が描けなくても絵は楽しめると思います。美術の楽しみ方を教えてくれるのも、美術教育の一環ですし。
私は「下手の横好き」でチョロチョロとイラストを描いてますが、とてもcorvoさんには見せられません(苦笑)。
投稿者 チョビ之助 : 2006年09月26日 13:23
掲示板の方は、巡り合わせが悪かったとしか言いようが無いように思います。
私は美術の授業に対して、特に<成績の付け方>に対して犠牲者意識というか、問題意識があります。
私の高校の美術の授業では、テーマが常に「自由」でした。
何をやっても良かったのです。
映像の授業なら、何を撮っても良い。
選択美術という専門的な時限では、それこそ、映像を作っても絵を描いても何をしても良い。
ただ、小田先生のエントリーでもお見かけしましたが、「自由」なテーマというのは非常に困難なもので、美術の右も左もわからない者にとっては非常に辛いものでした。
先生も教室を見に来ることはなかったので、美術の時間はみんなのお弁当タイムになっていたように思います。
もちろん、この状況でさえ成績なるものがついて、私は割とマジメに取り組んでいたにも関わらず、あまり成績が良くなかったように思います。
五十歩百歩の提出作品に、どうやって成績をつけていたのか今でも疑問です。
このことが、なかなかショックで、美術に対する苦手意識がかなり強まりました。
余談ですが、中学の時の美術教師に会った時に、
「そっか、いあそさん、美大に進学したんだ。才能あったもんね」と言われ、かなり驚きました。
私の中学の時の美術の成績は、3でした。
平々凡々です。
ところが、私の当時の作品が「参考作品」としてデータベースに記録されていると言うのです。
美術が好きなのに成績が伸びないコンプレックスは、中学の時から生まれたので、先生に「では何故、5をつけてくれなかったのか」と聞いてみました。
すると、美術では、制作の途中でも評定時期となればその作品を評価して、成績をつけてしまうから、だそうです。
で、私の作品は、いつも先生が成績をつけた後にメキメキと仕上がりが良くなっていた、とのことで。
正直、もう中学や高校の時の成績の付け方は、嫌です;;
成績なんて気にせず、好きなことをやっていれば万事解決だったのですが。
投稿者 いあそ : 2006年09月26日 14:29
>眉さん
すてきな想像力だと思います。すかさず、先生がフォロー入れてくれたら、泣かずにすんだのかもしれませんね。すでに人から見られているという意識が芽生えていたのでしょうか。
だからこそ、相対的に評価するものではないのだと思います。
幼稚園のときなんか、とにかく勝手気ままに描きたいものだけ描いていましたね。その時期は、それでいいのだと思います。
>チョビ之助さん
苦痛を感じたということは、自分はもっと描けるはずだという思いがあり、でも上手くいかなくて批判され、ますますやる気を失ったということかもしれません。
どうやれば上手くいくかという方法を一緒になって考えるような、そんなことがあればここまで思うことはなかったでしょう。
美大を出たぐらいを鼻にかけているなんて大したことないな、ぐらいに思うことができれば、そんなに嫌な思いをしなくても良かったと思います。
広い視野を失っている時は、損をしてしまうことが多いですね。
イラスト、気が向いたら見せてください。
>いあそさん
成績が全てではないし、それだけにとらわれてしまうと不自由になってしまいます。といっても、学校に通っているときというのは、成績が大事だし一喜一憂するのは仕方のないことと思います。
成績を付けている方も完璧ではないし、見落としてしまっている部分もあるし、それぐらいに思ってしまうと楽なんですけどね。
僕もいろんなコンペに出して落選することの方が多かったですが、そんなときは諦めるしかないです。学校の先生にであれば、どうしてこの成績なのか聞くこともできるし、話し合うこともできます。
社会に出ると「締め切り」というものがついてまわります。そうすると、もうちょっとやれば良くなるのにな、は通用しなくなります。そこが全てではないですが、学校教育にはそういった訓練の側面も含まれていると思います。
投稿者 corvo : 2006年09月26日 17:02
美術教育とは?など考えた事も無い人間なので論点がずれた意見だと思いますが、ご容赦を。
美術について
二次元座標に点・線を配置して平面を作る、三次元座標に面を配置して立体を作るというのが数学では積分、芸術では絵画や彫刻です。数学(と言うか科学)と芸術は元々同じ活動・基本形であったのかな、と思うことがあります。基本形が長い歴史を経てマイナーチェンジを積み重ねた結果、分化して芸術と科学になったと。この2つだけで無く人間の活動全般(経済、宗教…)に言えると思います。これと同じ様に一人の人間の人生も基本形からマイナーチェンジを繰り返して形成されていくと思います。基本形となるのは子供の頃です。全ての思考、感情、視点(点、線、面、空間、感性、理性…)は一体化した構造です。ただし子供の頃は基本形としてもまだ成長段階です。成長の栄養となるのが学校・親・地域など周囲の環境です。子供に美術をさせない、というのは歪んだ基本形を作ってしまうのでは、と思います。美術が嫌いになるだけならマシですが。基本形から歪んでしまうとその後の変化も連続する事が難しくなってしまう=人間的成長を阻害してしまうのでは…?
教育について
基本形からの変化の方向を画一化された傾向へ導くのが学校教育であります。結果、多様な個性と言っても画一化された枠内でのバリエーションに過ぎなくなります。しかし全く別の方向に変化し、枠外にいる異質な人間というのもやはり存在します。画一化された枠内の概念しか持たない大多数の者にとって枠外にある概念を認識することは非常に困難です。認識できないが為に無個性・無人格者として扱われてしまいます。これは恐ろしいことです。これこそ学校教育の犠牲者です。
画一化された枠に入る為に教育を受けろと言うつもりはありません。全く異質な物の認識・理解は困難であり、苦痛であり、嫌な事です。しかし異質な存在を認識できる人間になる必要はあります。そのための訓練であるという姿勢で教育を受けるべきでは無いでしょうか。たとえ苦痛であってもです。
投稿者 僧帽筋 : 2006年09月26日 19:58
かわいそうな人ですね。
この人自身もかわいそうですが、子どもさんはもっとかわいそうですね。
私も図画工作から美術まで3の壁を越えたことがありませんでした。
だから、なんとなくこの方の気持ちが分かります。
でもだからといって、子どもに絵を描かせないのは良くないと思います。
子どもの可能性を閉ざしてしまうからです。
親や教師は時々、子どもだからといって、年齢が低いといって、
考えていることを上手く言葉にできないからといって、
子どもを一人の人間として扱わないことがあります。
この方は、典型ですね。
もし、子どもが20歳であったら、絵を描くなとは言えないでしょう。
相手が大人だからです。人間だと認めているからです。
でも、何歳でも子どもだって人間なんです。
ただし、親や教師の影響をとっても受ける人間なんです。
だから、言われたことを一生懸命やろうとします。
『「音楽・美術・体育は1でもかまわない。でも、それ以外の科目は1は許さない。」という方針で教育しています。子供も納得しています。』
きっと親の期待に応えようとしているか、
期待に沿うような人間になってしまったかでしょうね。
技能教科を軽視する人間になってしまったのですね。
かわいそうです。
世の中に美術が無かったら、大変なことになります。
先日、日テレ系で放映されている「世界一受けたい授業」で
「もし、世の中から標識などが無くなったら」という授業をやっていました。
非常口の表示、交通標識、トイレやエレベーターのマーク、
こういったものが無くなったら世の中どうなっちゃうのでしょう。
みんなれっきとした美術作品なのに。
今の教育は確かに問題もあると思います。
子どもの作品というより教師の作品だったりすることがよくあります。
教師の基準に沿わないと良い評価がもらえないこともあります。
それでこの方も深く傷ついたのでしょう。
しかし、それは子どもの可能性を閉ざして良いという理由にはなりません。
この方が美術が苦手だからといって、
子どもも苦手だったり嫌いだったりするとは限りません。
親が可能性を閉ざしてしまったら、
子どもは自分で開くのに物凄いエネルギーと時間を必要とします。
やっぱり子どもが、かわいそうですね。
投稿者 アンクルディノ : 2006年09月26日 20:14
ご無沙汰してます、35Ba2です。
その「掲示板」、見てみました。話題提供された方、美術教師によって、何か強いトラウマが生じたのでしょうか? この方からは、「美術教育は必要なし!(、況んや恐竜・古生物教育をや)」と言われてしまいそうな感じ(勝手な憶測ですが...汗)。
私も絵を描く事が、大の苦手です。図画工作や美術の教師にも恵まれた訳ではなく、通信簿も”行進曲”な始末(1と2を繰り返すってことで(^^;)。
でも、学校の美術教育から解放された後でも、社会人やってる中で、何かの機会に絵画を見て言いしれぬ感動を覚えたり、絵画の構図や色などの科学的説明を聞いて感動したりすることもあります。地形の中に自然美を見る事も有れば、化石や骨格に機能美を見ることもありますよ。そんな時、たま~に「そう言えば、学校の美術の時間で...」なんて思い返す事も。
美術の授業に限らず、高校までの授業って、これからの生き方のキッカケ作りだと、個人的には思っています。なので、話題提供された方の考え方では、今後のための折角の機会を失うことになるンじゃないの?、と思う訳です。
corvoさん、この方との論議の行方が気になるので、不都合の無い範囲で、何かの機会に、その後の経緯を聞かせて頂ければ幸いです。
投稿者 35Ba2 : 2006年09月26日 20:21
ご紹介先の掲示板で『美術教育の犠牲者』とおっしゃっている方は、『外れ美術教師』に当たってしまっただけだと思います。
私は幸い外れ教師に当たった実感はないのですが、現実にはハズレが多く混ざっていることは知っています。
実際に先生(教師、政治家、医師‥ )の起こす、情けない不祥事もたくさんあります。
教師を選ぶ権利はないことが多いので、氏はある意味 事故の被害者かも知れません。
被害者が加害者やそのコンテンツを憎むことは避けられないと思いますが、必要以上に美術を嫌っていることは残念に思います。
美術には人を幸せにするキーワードがいくつもあると思うのです。
投稿者 ミヤモト : 2006年09月26日 20:26
教師のせいで特定の課目が苦手~嫌いになったというのはよく聞く話です。特に「センス」「素質」が問われる芸術系科目ではそれを苦手とする生徒の「置き去られ感」が強くなりがちですし。それにしても、判断力が未熟なくせして多感な年頃に、相性のよくない教師に当たるのは不運としかいいようがありません。本人が美術を嫌うのは自由ですが、別人格である我が子まで美術を嫌うようにしむけるとは、教師と美術への恨みの深さがしのばれます。もしかしたら、その人はもともと、美術に親しむ環境になかったのかも知れません。または、美術や芸術一般への偏見が背景にあったのか……。判断材料が少ないと、人は極論に走りがちです。コドモならなおさらです。場合によっては、教師が生徒のネガティブな背景もひっくるめて面倒見なければならないこともあるのでしょうね。
私自身は「美術」の授業を受けたのは中学の3年間のみです(高校では音楽を選択しました)。中学の美術教師は思い出すとむかむかするほどアレな人物で、その人間性は保護者間でも問題視されるほどでした。ボイコットする生徒も少なからずいました。詳細は省きますが、それでも私が美術嫌いにならなかったのは、母が水彩画を趣味にしていて、日常的に美術に親しんでいたからだと思います。休日に母と三脚を並べて静物画を描いたり、屋外に写生に行ったりしたことは今でも良い思い出です。残念なことに私の絵は絵とも呼べないシロモノですが、優れた美術作品を観るのは大好きというひかえめな「美術ファン」にはなったと思います(笑)。
芸術系の教師は一般教科の教師に比べて鼻につくところがあるのは事実でしょう。ですがそれはエリート意識というよりも、彼らの「想像力の不足」に由来するのではないでしょうか。私の知人に天才的な音楽家がいます。その人は弟子に対しては基本的にカネだけとって放置です。相手が子どもでも大人でも同じ。根拠は「自分で発見出来ない人間に何を教えてもムダ」だから! ここまで開き直られるとどっからツッコんでいいのかわかりませんが(←なら弟子とるなよ!)。自分が天才だけに、相手の「わからない」が理解できず、何を教えたらいいのかわからないみたいですね。
世の中には「芸術系科目は素質のある人、やりたい人だけが習えばいい」と考える人もいるでしょう。だけど、近代初等教育なんてのはそもそも贅沢品ですから、いまさら読み書き算盤だけやればいいなんてのはリクツが通りませんよ。芸術は最終的に「センス」「素質」がモノを言う分野であっても、なにも全員が芸術家になるわけじゃありません。それに、芸術を支えているのは芸術家だけじゃありません。美術教育はよい教師、よい鑑賞者、よいスポンサーを育てます。教育の成果とは複合的なもので、指導者の力量、相性、本人の素質、環境、ほかの弟子との人間関係など、さまざまな要素に影響を受けるから、表現の才能があるからといって表現者になるとは限らない。だけどそれはムダじゃないんです。裾野を拡げ、層を厚くしてこそ、ようやく一握りのすぐれた表現者が現れる。豊かな土壌があるからこそ才能も育つわけで、ひいては文化振興、豊かな未来、いま流行りの「美しい国」とゆーやつにつながっていくんじゃないのかな。
最後に、義務教育期間中の子を持つ親の実感として、今の教育には「身につける」とゆー発想が欠けているみたい。リクツ抜きで「身につける」って、大事なことだと思うんだけど。
投稿者 yoiko : 2006年09月26日 21:34
はじめまして。高校卒業間近の海晴(みはる)と言います。
私は中学の頃から美術分野に関心を持っていましたが、金銭的都合で美術教師のいない高校に通っています。そこにはかろうじて美術部があったので入部したのですが、漫画やイラストのほうに重点を置いた活動しかやっていませんでした。顧問は美術になんの興味も理解もない方でしたので、自分で油絵セットを持ち込み独学で描いていました。それでも美術に関する興味は尽きず高2から美術予備校の通信生となり、今はとある公募展用の150号の製作がナントカ終わったところです。
私の場合は美術教育という場がまったくない環境だったので、掲示板の方とは逆に美術ってなんだ!?もっとちゃんとやってみたい!!という気持ちが強まり無謀にも美大進学を目指しています。
いろいろな苦労があったのですが、今年はなんとか最初で最後の高文連の遠征に行かせてもらえることが出来ました(中間テスト初日でしたが;)
ちゃんとした美術の先生に講評をいただけると淡い期待を抱いて苦手な顧問と二人きりで遠征した高文連は、開会式も閉会式も行わず、なんの説明もないままに、その会場をうろついている先生を捉まえて自分の絵を見てもらう。だたそれだけでした。
さらにショックだったのは、ただでさえ美術教師は少ないというのに、ある先生を捉まえて講評をお願いしたところ「僕は美術の教師ではないので他を当たってください」と断られたことや、会場の外をうろついて「講評ラッシュ終わったかしらね」などとコソコソ話をしている先生が居たことです。
美術の先生が少なくなっている地域だからなのでしょうか。これでは教わる人も教える人も不幸だと思いました。
正しい美術教育というものがどういうものかわかりませんが、絵を描く以外にも美術史などは歴史の要素も入っていて、ちゃんと教えれば子供の興味は広がるのではないでしょうか。ともかく美術を教えるしっかりした土台を築くべきではないかと思います。
いきなりの長文失礼しました。
投稿者 みはる : 2006年09月26日 23:08
いきなり次元の低いコメントになってしまうかもしれませんが、私が思ったことを書きます。
確かに、美術(という教科)が嫌いな人はたくさんいるかもしれません。
学校での美術は、結局は先生という一人の人間からの評価がついてしまいます。
やっぱり評価が良くないと、興味も薄れちゃったりするのかもしれないですよね・・・
それに、美術の評価って、テストのように正解があるわけじゃないところで評価されるので、評価される側としては、なんだか分からない部分がたくさん出てきてしまいます。
教科として嫌いになる分には、書き込みをされた方の意見もわかります。
出来ないものを強要されるのは、やっぱり辛いことだから。
ただ、書き込み主さんが「激しい憎しみ」を受けるきっかけとなってしまった美術教育を、お子さんに、絵を描くなということで遮断してしまっていることは残念だと思います。
それでは、書き込み主さんが憎んでいる美術教育と、その方の教育はなんら変わりのないものじゃないかなって思います。
お子さんがもしかしたら「絵を描きたい」と苦しんでいるかもしれないのに。
私は、昔から創作活動が好きだったので、美術に興味もありますし、美術の授業を苦に感じたことはありません。
特に、小田先生との美術の時間は、毎週楽しみにしていました!
古典的な色塗りと、コラージュの組み合わせがとても新鮮だったのを覚えています。
そういう人間にとっては、ちょっと悲しい書き込みでした。
投稿者 佳代 : 2006年09月26日 23:36
>僧帽筋さん
論点がずれているとは思いません。非常に納得のできる意見です。
今は便宜上、各教科に分かれていますが、本質的には全てつながっており、どれひとつをとっても無駄だったり、必要のないものは存在しないはずです。
ある種の歪みが個性となって、優れた表現者や研究者になる場合があるかもしれませんが、ひとつ間違うと犯罪者になってしまうかもしれません。全ての教科をバランスよく点数がとれることが重要なのではなく、多くのことに関心を持ち、興味を持って接していくことに意義があります。
掲示板では家庭の教育に関して否定も肯定もしないと書きましたが、決定的に間違っていると言わざるをえません。子供が可哀想すぎます。
苦痛であっても訓練することは、とても大事なことだとこの年齢になっても思います。新しいことに挑戦していくには、常に訓練が必要です。苦痛も伴います。努力も必要です。
何かをしなくていいという前提は、常に何かから逃げてしまっている状態にすぎないと思います。
>アンクルディノさん
本当に子供が可哀想です。
『「音楽・美術・体育は1でもかまわない。でも、それ以外の科目は1は許さない。」という方針で教育しています。子供も納得しています。』
下種の勘ぐりかもしれませんが、他の教科2や3でも良いのでしょうか。それ以外は全部5をとってきなさいというのなら分からんでもないのですが、1は許さないというのでは2や3でもいいのでしょうね。技能教科は全然駄目、学科も人並みの何の取り柄もない人間になってしまいます。
これは半分冗談にしても、親の期待に応えようと一生懸命なのだと思います。不憫でなりません。
美術が不要であるならば、この人は子供に絵本の読み聞かせをしたことはないのでしょう。絵本も漫画も映画も、全てその存在を否定しなくてはならなくなります。新聞はさまれた広告も、雑誌も手にとることはできません。服にも気を使うことなく、ネクタイの柄を選ぶなんて言語道断ですね。
教育は完璧ではないし、完璧になるはずがありません。だからといって、全否定してなしにしてしまうというのは、全く間違った発想です。
>35Ba2さん
こちらこそご無沙汰しています。
特に古生物は美術的要素が強いと思います。形態を認識する力がなければ、化石を分類したり、部位を判別することはできないと思います。
研究者にも美術に関心があったり、造詣の深い方が多いですよね。
高校までの教科は受験のためだけではなく、人間形成の上でも大事なことが多いのだなと今頃になって気づくのですよね。
大人が子供の可能性を奪う権利はありません。その点で決定的に間違っていると思います。
>ミヤモトさん
教師を選ぶことができないのは、動かしがたい事実です。それでも、なんとか折り合いをつけて、やってきたように思います。とんでもな酷い教師に出会ったことがないのが幸運だったのかもしれませんが、ここまで憎むパワーはこれはこれで凄いことだと思います。
ごく狭い範囲の経験と視野から、全てを否定することは大きな間違いです。
僕も美術は人間を幸せにする要素をたくさんもっていると思います。
>yoikoさん
掲示板で書き込んだ人の経験はごく狭いものだと思います。そんな偏った、視野の狭い見方を、子供に押し付けて、それを堂々と意見として書くことにも驚きます。
僕は天才ではないので、どういったプロセスを経てきたかを、ある程度人に説明することができます。また、同じように進みたいと思う人間には、ある程度アドバイスすることも出来ます。でも、想像力の欠如した人間が天才だとはとても思えないです。
おっしゃる通り、美術の教科はプロになる人間のためにあるのではないです。まさに豊かな土壌を作り、文化を守り発展させていくためのものだと思います。これは誰にでも出来るし、参加できることです。
それを美術や芸術から遠ざけてしまったのでは、まっとうな人間形成は望めないのではないでしょうか。
「身につける」大事ですね。テストではかれることしか、重要視されないのでしょうか。
>みはるさん
初めまして、コメントありがとうございます。
美術教師のいない高校があるのですね。ということは美術の授業もないということですね。
そんな状況で150号に挑戦するとは、素晴らしいことだと思います。
でも、ひとりでやるのはしんどいと思います。独学だけでは厳しい世界です。是非、良い出会いがあることを願っています。
みはるさんの経験を読んで、美術や美術教師が削減されることが、決して子供たちの幸せにつながらないことを実感しました。
僕でよければ、アドバイス出来ることがあるかもしれません。メールでもいいですし、コメントでもよいので、気軽に書き込んでください。
これからもよろしくお願いします。
>佳代さん
とても嫌な教師にあたってしまったとき、その教科が嫌になってしまう気持ちはよくわかります。
しかし、自分の美術嫌いを子供に強要することは間違っています。
評価の方法は難しい部分もありますが、課題の目標を明確にすることで、ある程度基準を絞ることが出来ます。「自由に描きなさい」というのは、もっともまずいやりかたですね。
僕の授業が楽しかったといってもらえて嬉しいです。まだまだ試行錯誤の部分も多いし、うまくいかないこともあります。
教育というのは、本当に難しいことなのだと思います。
投稿者 corvo : 2006年09月27日 02:35
掲示板を見てちょっとショックを受けました。悲しい書き込みです。
自分はこの方とは逆で、美術で救われた口なので・・・全体的に特に良い成績でもなく、同級生からバカ扱いとまでは行きませんが、目下には見られてはいました。そんな中美術の授業で絵を描いていたら、皆「上手だね」と言い、(結果は3でしたが、これは作品と先生の好みの違いということで)自分を見る目が変わってくれたことで僅かばかりの自信が持て、少々問題有りですが社会人になれました(笑)
絵を描いていなかったら・・・と思うとぞっとします。
美術に限らず、どんなことでも差別されることは悲しいことです。学校は狭い世界のことですから、(現在はネットもありますから、もっと広いのでしょうね)
少数の意に添わない人を見ると、どうしても目立って排除されてしまいがちだと思います。特に先生から言われるということは。大なり小なり、先生と名の付く人には無条件で信頼してしまうことがありますから。しかしだからといって憎んだことを、子供さんに教え込むのはどうかと思います。
<「音楽・美術・体育は1でもかまわない。でも、それ以外の科目は1は許さない。」という方針で教育しています。
<子供も納得しています。
「他の教科はできるけど、音楽、体育、絵は描けない芸術性のない、おもしろくない変な人間だ。」
などと、同級の子達から言われて嫌な思いをしていないでしょうか?どこで差別をつけられるかわからない子供の世界です。そうなってしまってからでは遅いのではないかと思います。
「やらなければ親は怒らないし、うるさいから、黙って言うことを聞いていた方が無難。」だと、納得ではなく計算されていないでしょうか?大人になったとき親を憎んでしまわないでしょうか?
美術教育のあり方の前に、子供を教育すること自体が歪みを帯びている。そんな気がしました。
つたない文で長文、失礼いたしました。
投稿者 ぴよ誠 : 2006年09月27日 02:40
>ぴよ誠さん
どうも、書き込み久しぶりですね。コメントありがとうございます。
僕自身も、この掲示板の書き込みには非常にショックを受けました。なので、すぐに反論の書き込みをした次第です。
一度差別を受けてしまうと、それをはねのけていくのは、並大抵のことではないと思います。やはり子供が可哀想ですね。
非常に歪んだ教育観を押し付けられているように思います。
親を憎んでしまう可能性は高いと思います。親の期待に応えるあまり、見えない鬱屈したものが澱のようにたまっていってしまことが恐いです、いつか爆発してしまうでしょう。
全て、憶測でしかありませんが、是非美術や芸術の好きな人間になってほしいと切に願います。
投稿者 corvo : 2006年09月27日 02:59
難しいですね。
少なくとも、中高の美術の時間は大好きだった小学校の図画の時間とは、全く異なっていたことは確かです。
自由に何でも思い通りに描けた図画の時間とは異なる部分があったことは確かです。
まぁ、これは美術に限らず、あっしの場合は主要科目全部に渡って当てはまります。小学校から中学校のときに大きく落ちこぼれたんですよね。
好きだった勉強は嫌いなものになり、体育では相変わらずの運動音痴。イジメにも遭い、そんな中自分を救ってくれるはずだった美術でも落ちこぼれた...。
話が逸れそうなので、美術だけに絞ります。
小学校の先生は、偏屈なオヤジでしたけど、何故という疑問にきちんと回答を示してくれました。
彫刻でココは深く彫らなければならない。それはこの部分をより強調するためだ、と言った感じです。
中学高校の先生は、このあっしの「何故」に対してあまり明確な答えを示してくれなかったように思います。
絵を見るのは好きです。
でも、この何故に対して明確な回答が得られぬまま成長したので、いつしか絵を描くことを止めてしまいました。
投稿者はあっしから見ても不幸な人だと思います。
ただ、親の考えを子供に押し付けて欲しくない、と思います。
それは、あっしのようにただ親を憎むばかりです。そんな子供は一人でも減って欲しいと思います。
すいません、私事ばかりであまり答えになっていないと思いますが、看過できなかったので、書き込ませていただきました。
言葉足らずな部分も多々ありますが、お許し下さいまし。
(<書いてて昔のこと思い出して泣けてきたものですから(苦笑)。)
投稿者 かずごん : 2006年09月27日 21:14
小田さん、この記事を書いてくれてありがとうございます。本来なら私が真っ先にやるべきことだったかもしれません。(反省)
そしてみなさんが書かれたコメントを読みながら、いろいろと考えるきかっけを与えてくれました。
美術教育関係者は特に、読んでおくべきことだと思いました。そこで私もとりあえず、記事にしましたのでトラックバックさせていただきました。
それにしても小田さんの読者の方々のコメントは美術教育の研究のときの参考資料として使えそうです。ありがとうございます。
投稿者 山崎正明 : 2006年09月28日 00:13
>かずごんさん
美術や芸術において重要な要素のひとつに、コミュニケーションがあります。それが全てといってもよいほど大切です。
授業でもやはり対話の部分が大事なのですね。一方通行では、どちらにとっても良いことではないです。
巡り合わせの悪さは、これは不幸としかいいようがないです。しかし、その不幸を自分の子供に押し付けることは、自分がやられたことを、矛先を換えて繰り返しているように思います。悪循環でしかありません。
もっと些細なことでも、子は親を憎んでしまい、大人になってもトラウマを抱えてしまうことがあります。
そんなことにはなってほしくないです。
>山崎正明さん
僕自身も記事にするかどうか迷いました。もしかしたら荒れるかもしれないとも思ったのですが、コメンターの方々がとても真摯に熱をこめて書いてくれました。
とても感謝しています。
掲示板も、また少し動きがありましたね。僕も書き込もうと思っています。
投稿者 corvo : 2006年09月28日 00:42
お久しぶりです、corvoさん。
美術教育と聞いて、書き込まずにはいられない気持ちになってしまいました。僕は投稿者さんとは逆で、美術に救われた口です。
小学校までは正直、絵は見ることは好きでも、描く事は嫌いでした。描きたいものや風景はいくらでもあるのに、描く術を知らず(遠近法を知らなかったのです。小学校の先生は、描き方を教えてはくれなかったので。)ちっとも思い通りに描けないので、いつも絵の時間は、画面を前に途方に暮れていました。苦痛な時間でした。
しかし、中学に入ってからは状況は変わりました。理論と方法をしっかり教えてくださる先生に出会えたのです。方法を学んだ事で今まで描けなかったものを描くことができ、美術の時間が楽しくてしかたありませんでした。この先生との出会いがなければ僕の絵の道は閉ざされ、他に得意な事など何一つなかった僕は、なんの取り柄もない人間になっていたでしょう。
そう考えると、投稿者さんの美術教師への怒りはわかる気がします。確かに人生において、人との出会い次第で自分の人生が不幸になったり、幸運に恵まれたりすることは多々あると思います。投稿者さんの出会いはとても残念なもので、不運であったとしか言いようがありません。恨みたい気持ちもわかります。美術に限らず、そういう先生に出会う事は避けれるものなら避けたいです。
しかしながら、その先生を美術教育そのものであるという考えは、極端ではないかと思います。先生は一個人であり、人間ですから。
そして、美術教育そのものが悪みたいな考えも、同様です。世の中には、美術教育によって救われた人間もすくなからずいます。僕もその一人であり、他分野では落ちこぼれていたが美術があったからこそ、今の自分があります。
それから、子供の教育に他人が口を出す事ではない気がしますが、投稿者さんの個人的な美術に対する恨みをお子さんに投影してしまうのは、お子さんの可能性をひとつ潰すことになってしまうかもしれない、とても残念な事だと思います。親のエゴで子供の選択肢を奪い取る事は、教育ではないように思います。(お子さんが、本当は美術が好きなのに親に気を使って、美術は必要ないと言っている姿を想像すると、悲しい。)
投稿者さんには美術で救われた人間がいること、それでしか救われなかった人間がいることを知っていただければと思います。そして、今からでもトラウマを克服して、絵を見る喜び、描く喜びに出会えるよう願ってやみません。
投稿者 sumineko_sumi : 2006年09月28日 04:47
こんにちは。
あまりたいしたことは書けませんが、絵が苦手だった者であり今は一人の母親としての感想です。
私自身は絵がもの凄く下手で、真っ直ぐな線が描けないほど酷く、美術がいつも成績表の足を引っ張っていました。でも苦手なものは、成績が悪かろうと、先生にけなされようと、「苦手なんだから。」と割り切っていた気がします。掲示板の方は、すべてのことを上手くやりたいという完璧主義か、他の科目の成績が抜群によい優等生なのではないでしょうか。
苦手だから・・・とあまり向上心を持たなかったことは、大人になってから後悔しました。仕事で、企画書にラフなイラストを描かねばならないことがあったり、自分の伝えたいことを「絵が上手ければ伝わるのに!」と思ったことが、幾度となくあります。
「美術の先生も、下手は下手なりに、書き方のコツなどを、もうちょっと教えてくれれば良かったのに。」と思いもしました。でも自分もやる気が無かったのだから、仕方がないのです。何でも人のせいにしてはいけませんね。
子供が生まれ、友人のやり方を真似て、子供には好きなだけの紙と画材(普通のクレヨン・色鉛筆・サインペンなど)を与え、いつでもどこでも好きなように描けるようにしてやりました。最初は、特に絵が好きなわけではなかったけれど、幼稚園当たりからよく描くようになったので、「すご~い。」「うまいね~。」と言っていたら、だんだん好きになり、小学校に入ってからは暇さえあれば絵を描いています。私には信じられない。(笑)ストーリー作りも好きなので、絵本も何冊も作っています。
私が好きでないからと制限していたら、この子の今の生活の楽しみの半分くらいは消滅していたでしょう。
別にプロになるわけではないのだから、好きなら描かせてやればいいし、そうでなければやらなければいいだけです。ちなみに下の子はあまり好きでないようで、描きません。
子供の可能性や楽しみを親のエゴで採り上げてしまって良いのか、疑問です。危険なことや、悪いことは採り上げるべきでしょうが、美術を採り上げる理由はありません。
この問題は美術が好きか嫌いかというより、煎じ詰めれば、成績を悪くつけられるのが嫌、先生に悪く言われるのが嫌、というところに辿り着くのではないでしょうか。
苦手なら成績が悪くたっていい、世の中には馬が合わない人間もいる、そう割り切ってしまえばこんなには傷つかなかったのに・・・と思います。
私ほど下手じゃなければ、そうは割り切れないのかな?
長々と失礼いたしました。
関連記事をTBさせていただきますね。
投稿者 milesta : 2006年09月28日 09:32
↑上のコメント、誤字がありました。
採り上げる→取り上げる
でした。すみません。
投稿者 milesta : 2006年09月28日 09:39
こんにちは。corvoさん、お久しぶりです。
話題になっている掲示板を読みました。
>しかもこの方は、自分の子供にも絵は描くなと教えているらしいです。
>自分と同じ苦しみを味わせたくないという理由からだということです。
もし、子どもが絵を描くのを望んでいたのにこう教えているのだとすれば
その方が受けた理不尽な苦しみ、
表に出ているものは違えど内面は同じものを
子どもに与えているだけだと思います。
たった一人の教師の言動を美術芸術全般に当てはめるのは
それだけ傷ついているという心の現われかと思いますが
拡大解釈であり誤っている判断です。
その方の心の傷が癒されるのを願って止みません。
関係ないですけど、自分も高校で数学がわからなくなってしまい、(しかも理数科でした)
今必死に子どもと一緒になってリベンジしてます。(^^;)
絶対乗り越えてやるっ。
投稿者 あんねりあん : 2006年09月28日 10:36
>sumineko_sumiさん
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
僕も遠近法が理解できるまで、自分のイメージと画面のずれに苦しんでいたひとりです。それでも強引に好きに描いていました。
でも、アカデミックな訓練を受けるようになってから、理解が深まるにつれて描けるようになっていくことが楽しくてしょうがなかったです。
僕にも恨みたくなる先生や、それが原因で嫌いになってしまった教科があります。しかし、自分次第なのだと思います。幸い、ものすごく酷い教師に出会わなかったのかもしれませんが、今憎むほど嫌いな分野というのはないです。
憎むほど嫌いになるパワーを、愛するほど好きになるパワーに変換してほしいな、かってながら思ってしまいます。
>milestaさん
全てが完璧にできる人間なんていません。もし仮に学校の成績がすべて5だったとしても、それは学校という狭い世界のことで、社会という広い視野で見たらとても偏った評価軸でしかないと思います
何かに対して怒るパワーというのは、けっこう大事なことだと思うのですが、その怒りのパワーを別の方向に転換して、建設的に持って行くほうが何倍も良いと思います。いつまでも一つのことにこだわっていると、堂々巡りで狭くなっていってしまいます。やがては自分の首を絞めてしまうでしょう。
僕も親が広告の裏(昔は白い紙が多かった)を常に用意してくれていたので、毎日好きなだけ描くことができました。
当然、全員がプロになるわけではないです。でも、わざわざ嫌いになるように仕向けるのは、まったく間違った方法だと思います。
いつまでも成績にこだわっていると、社会に出てからも人の評価だけ気にして生きるようになってしまうのではないでしょうか。
自分で自分の生き方を決められない人間になってしまうのは、それはとても悲しいことだと思います。
>あんねりあんさん
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
自分がやられて嫌だったことを、自分の子供にしているように思えてしまいます。
別の人格だという視点が決定的に欠けているように思います。
自分の傷を癒されたいと願い、掲示板い書き込まれたのなら理解できる部分もあるのですが、ただ怒っていますという意思表明だけでは、いったいゴールがどこになるのかさっぱり分かりません。
ただ、怒り続けているだけでは、何も変わることはないでしょう。
高校の数学は難関ですよね。今からでも勉強やり直したいです。
投稿者 corvo : 2006年09月28日 17:16
小学校の頃は6年を通して図工が1だった者です。
要するにセンスが無いというのでしょうね。
そして手先も不器用でした。
成績が悪いのはマジメに授業に取り組んでいないからだと
図工科専任の教師には言われたましたが……
40を過ぎたいまでも納得がいきません。
どんなにマジメであろうとセンスは向上しないのです。
中学以降、少しはマシな成績がつくようになりました。
割り箸を鉛筆削りで削ってペンがわりにして細い線を描くなど
出来ないことを自分なりの工夫で乗り越えたからでした。
中学の教師からは、それは技法の開発にすぎないから
才能を磨くことにはならないと強く意見されましたが、
出来ない者にとっては出来るようになる道が必要です。
ほかにも様々なインチキ技法をやらかしましたけれども
不器用な者には道具を与えたり、
センスの無い者には理論で説明したり、
そうした視点が欠けていたのだなぁと
義務教育の時代を振り返る次第です。
いまは趣味で写真など撮っておりますが
構図のとり方などは理屈で覚えたクチです。
センスのなさは生涯かけても取り戻せないと痛感しています。
高い授業料を払って写真を学びに行った先でも
講師から「これ以上は巧くならない」などという
判定を下されておりますけれども、
たぶんそれは私のセンスのなさを指摘しているのでしょう。
いまの私なら、そんな風に言われても平気です。
写真は気持ちを伝える手段に過ぎないと思ってますから。
大事なのはなにを伝えたいのかという心根でしょう。
そうした哲学みたいなものを
"出来ない"生徒に与えることは出来ませんか?
投稿者 たぬき : 2006年09月28日 20:39
>たぬきさん
初めまして、コメントありがとうございます。
僕は、芸術表現は論理的な部分が大きな割合を占めていると考えています。
そして、ご指摘の通り何を伝えたいかということが一番重要だと思います。
でも難しいのが、伝えたいものがあるのにどうもうまく伝わらない、伝わるように表現することができない、そんなジレンマなのだと思います。
そこで重要になってくるのが、国語における論理的思考の訓練だと思います。言葉を使って論理的に文章を組み立てて対話する。そういった内容の授業を、小学校のうちから取入れると、また違った結果になってくるのではないでしょうか。
「センス」の部分も確かにあるのでしょうが、それほど大きな要素ではないと思います。
僕自身のことを振り返ってみると、とにかく絵が好きで物心ついた時から毎日描いていました。枚数を重ねることが、プロになった今でも重要だと思います。また、たくさんの優れた絵や写真、映画を見たり、小説を読んだり、そういったことが血肉となっていったと思います。
今の美術教育は作る方に偏重していて、鑑賞教育の部分が欠けています。
将来、見る側のプロとして芸術に関わることも出来ます。
常に完璧な教育はありませんが、今の美術教育には欠けている部分も多く、その点は反省しなくてはならないと思います。
論理的に思考すること、この辺りが突破口になるのではないでしょうか。
投稿者 corvo : 2006年09月28日 22:19
学問が全て繋がっていると思っているので、
美術教育だけが切り離されていることに違和感を覚えました。
私は数学が苦手だったのですが(今でもです・・・)論理的思考を鍛える(?)のに、もっとしっかり勉強しておけばと後悔してます。
仕事上、図学なども必要なのでさらに後悔。
美学書を読むもの、外語の能力はもちろん国語の読解力だって必要です。
コミュニケーションを細やかに結ぼうと思えば、全能力を投入してもまだ足りません。
美術が余暇の一つにしかすぎず、有閑の教養でしかないという世間の認識がそうさせているように思えます。
(似顔絵をやってたとき、絵を描く事が日常的でない方々のそういう考えには沢山触れました。それが一般的な認識なのかと。)
切り捨てていい学問なんてあるのかな?
生きる為に最低限必要な技術って何なのかな?
最低限なんてあるのかしら、などと思ったり。
ちょっと飛躍しすぎてますが、その様な事を考えてしまいました。
投稿者 やまとなでしこ : 2006年09月29日 03:26
>やまとなでしこさん
>学問が全て繋がっている
そうですよね。それが子供の時や学生のときは、なかなかリアルに感じられなくて随分、損をしてしまった気がします。
高校生まではとても作文が苦手で、文章が下手だったのですが(読書は好きだった)、必要に迫られて自分なりに訓練をして、多少は書けるようになりました。たまにギャラがもらえるときもあります。
今は英語に苦しんでいます。本当に嫌いだったのです。それなのに外国人の友人がいたり、海外へ行く機会が多かったりと、必要に迫られながら怠けている現状です。
誰でも得手不得手はありますが、全ての学問に興味を持つことは得することはあっても、損することは決してありません。
受験に必要かそうでないかで、区別してしまっているのかもしれませんね。
投稿者 corvo : 2006年09月29日 17:53
芸術という言葉から離れてみると図画・工作、美術の授業(体験)が子どもの成長いかに必要であるか見えてきます。
芸術(自己表現、自分をみつめる、自分と世界との関係を考える)
これは美術の授業のオマケだと考えたほうが良い
(クオリアは伝えられない。無理に伝えようとするとおかしなことになる。)
小学校のときは様々な素材に触れ、観察や加工する経験を重ねることが大切だと思う
中・高では技術の意図的な使用法を体系的に学ぶことを優先させたほうが良いと考えています
曖昧な、分かりづらい、文系的(哲学的)な要素を授業からできるだけ排除し、自然科学的なアプローチで観察・再現を中心に次第に変形(抽出・強調)と限定した内容を学校では教えたほうがよいと思います
教科というカテゴリーは合理的な学びの場を設定するためのものだったのに、要、不要や優位性という視点で語られることが多くとても残念です。
教科は便宜的に分けられたという原点に戻ってから学びについて考えることが必要です。
投稿者 さかい : 2006年09月30日 23:06
>さかいさん
初めまして、コメントありがとうございます。
ご指摘の点、よくわかります。
僕自身、自然科学の研究者と共同作業することが多く、論理的に思考して構築していく作業の重要性と面白さに気がつきました。
今、講師をしている高校では、極めて限定した内容で授業を行っています。
教師自身も、相互の教科について、理解と知識を持っておく必要があるのだと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
投稿者 corvo : 2006年10月01日 01:41
小学校入学前に、近所にお金持ちの漁師の家がありそこのお嬢さんが子どもたちに無償で絵を教えていました。休憩時間にお菓子を出してくれるのだけれど、これが普段食べているものとは段違いの美味しさ。私は、そのお菓子に釣られて通っていました。
皿に秋刀魚など入れて、さあ描いてごらん・・。私が皿と魚の輪郭をクレヨンで描いて中の色を塗ろうとすると、もう一枚画用紙を出して、「よく見てごらん、そんな線どこにある?」と問いかけてくれたことを、今でも憶えています。じっと見ると、本当にそんな線はない。色も、いろいろあってしかも変わっていく、驚きでした。
絵が好きになり、小学生のころはコンクールも入賞をすることもありました。高校生のころ、画家か美術教師になりたい、と思いデッサンを始めました。いくらやってもだめでした。ある日、自分のデッサン(よく描けたと思ったもの)を裏側から透かしてみたら、とんでもなくゆがんでいることに気づきました。「センスがない」ことを思い知らされた瞬間でした。画家か美術教師の夢は、消え去りました。
今は、美術とは関係のない技術関係の仕事をしています。ただ、私の中では、幼き日に「よく見てごらん」と言われ先入観を排して、魚を見つめそれを描こうとしたときの、なんと言えばいいのでしょう、ひらめき・快感・嬉しさ、そんなものが仕事や生活の中にいまも生きていると思うのです。
ここで議論されていることは、深いですね。考えさせられます。私は、個人的な体験しか述べられませんでしたが・・・。
投稿者 SUBAL : 2006年10月02日 23:47
>SUBALさん
初めまして、コメントありがとうございます。
子供のときの経験が、その後の人生を大きく左右するのかもしれませんね。
早期教育とは別の次元で、もっと子供の教育に社会全体でエネルギーを注いで行かなくてはいけないのでしょう。
この世界には輪郭は存在しないし、絵の具の色というのは極めて限定されたものでしかないのですよね。
何事も「よく見てごらん」、これにつきると思います。
経験談には、いつもはっとした面白さがあります。
いつでも遊びにきてください。これからもよろしくお願いします。
投稿者 corvo : 2006年10月03日 10:22
私は美術教育の研究をしているものです。
この掲示板の内容は私の地区でもあてはまります。
生徒が犠牲者と考えるのは、美術で何を学ぶか分からずにただ制作をすることにあると思います。
よく評価はできないという話を聞きますが、評価のないものは
学校で教える必要がないのです。
スイミングスクール、書道教室、ピアノ教室のように個人的に通えばいいのです。
私は中学校美術科を中心に研究しています。
中学校では多くが学校独自でカリキュラムを組んで取り組んでいます。私はこれに大きな問題があると考えています。
同じ公立中学校なのに先生の当たり外れが大きい。
全国どこへいっても同じ美術教育をうけられなければならないと思います。
ある学校はスケッチに力を入れている。こっちの学校はデザインの色塗りに力を入れている。また別の学校では粘土で手をつくっている。これでは不平等が生まれるわけです。
また、逆のことも感じています。
私がここのところ強く不安を感じるのはこんな授業です。
「全員が靴のスケッチ」
「自然物の構成」「立体感のある平面構成」
なぜ?
この授業の生徒の評価を真摯に教師は受け止めているのでしょうか。
確かに教科書にはスケッチをする内容があります。
しかしこれは「全員」が靴をスケッチするという意味ではありません。あるテーマがあり、スケッチを通して学ぶことに教育があります。
「自然物の構成」「立体感のある平面構成」については日本のデザイン教育も考え方が分かれ長くなるのでまた機会があれば投稿します。
最後にある統計(文部科学省)で美術教師が「生徒が楽しんでいる」と感じていても実際生徒は「分かりづらい」と感じていることがわかりました。教師と生徒の意識の違いは一緒に統計をとった音楽よりもずっと多かったのです。
美術に限らず、教師の多くは落ちこぼれの経験がありません。また、政治家や大学教授も同様です。
多くの美術教師は美術が好きかよい美術教師に出会ったからだと思います。
全員が絵が上手になりたいと考えているわけではないのです。
今のままの美術教育感が教師の中にある限りは、将来は選択教科になり、また、なくなっていく教科になるでしょう。
投稿者 lenny : 2007年01月02日 09:39
>lennyさん
初めまして、コメントありがとうございます。
美術制作には、多くの思考と試行が必要です。これは、他の教科にとっても有効な要素だと思います。
>よく評価はできないという話を聞きますが、評価のないものは
学校で教える必要がないのです。
とありますが、評価しなくてはいけないものこそ、校外の塾や教室や予備校でよいのではないでしょうか。学校教育だからこそ、多くの無駄があって良いと思います。評価と一言にいっても、いろいろな形がありますが、lennyさんのおっしゃっている評価とは、成績のことであって、受験に必要な評点という尺度だけの話のように感じます。間違っていたら訂正してください。
>スイミングスクール、書道教室、ピアノ教室のように個人的に通えばいいのです。
そうしてしまうと、美術教育を受けられる生徒とそうでない生徒が出来てしまいます。これこそ、教育の不均衡であり、不平等ではないでしょうか。確実に格差が出来てしまいます。教師の質、授業の質が、不均衡、不平等につながることは理解出来ますが、そういった点を批判しながら、「スイミングスクール、書道教室、ピアノ教室のように個人的に通えばいいのです。」という発言が出ることに大きな矛盾を感じます。
>美術に限らず、教師の多くは落ちこぼれの経験がありません。また、政治家や大学教授も同様です。
この一文に、大きな違和感を感じます。
挫折の程度は、個々人によって感じ方も違い、大小について簡単に語ることはできませんが、僕自身もいくつかの挫折を経験しています。もちろん、それは美術の世界においてでもです。
それでも美術を好きだから、続けてこられました。
人間には好きなもの、嫌いなもの、得意なもの、苦手なもの、それぞれあります。
美術の授業をなくしてしまうことは、美術が好きで得意な生徒から、その能力を発揮する場を奪うことです。
僕は英語が苦手でしたが、授業に出て、テストを受け、点数が悪ければ追試を受け、そうすれば卒業に足る単位はもらえました。
美術が苦手でもいいと思います。でも、それが理由で嫌いになって欲しくはないです。
>全員が絵が上手になりたいと考えているわけではないのです。
僕が知っている美術教師は、そんなことは全然考えていません。
絵が上手になるためだけの美術教育など、百害あって一利無しです。
質問があります。
「私は美術教育の研究をしているものです。」
とありますが、どこかの大学で研究されているのでしょうか、それとも在野の方なのでしょうか。現場で美術教師をされている方なのでしょうか?
美術の授業が、日本の学校からなくなっても良いとお考えなのでしょうか?
世界で、美術教育を完全に無くしてしまっている国はあるのでしょうか?
落ちこぼれを作らない描法として「酒井式」の存在がありますが、「酒井式」についてはどんな感想をお持ちでしょうか?
>今のままの美術教育感が教師の中にある限りは、将来は選択教科になり、また、なくなっていく教科になるでしょう。
問題のある教師も少なからずいるのかもしれませんが、それを原因として美術教育がなくなっても良いとは思いません。
特に中学までが、選択教科にするものでもなく、ましてや無くして良い教科ではありません。
投稿者 corvo : 2007年01月03日 00:31
えーと、研究者の方の考え方が良く分からないのですが…。
経済的見地から、図画工作の授業はモノ作りの根幹であり、美術授業はモノに付加価値を与える重要な種
それに尽きると思うのですが…。
僕の勤めている会社ではモノを作るときに、デザイン事務所にそれなりのお金を払ってます。外観は商品を売るに重要な要因だからです。で、もし学校の授業から美術が除かれたら将来どうなると思います?僕は対価の割に質の低いデザインしか生まれて来なくなると思うんですが。スウェーデンの商品ってどう思います?そしてスウェーデンの美術教育の研究結果はどのようになってますか?素人の僕から見て、美術教育とモノの付加価値は同一線上にあるのですが。
個人的に、美術の衰退及びそれに伴うデザインの衰退で一番怖いのは、日本車が醜くなりそうという事です。中国車の現状をご存知ですか?なにかの劣化コピーのようなものか、イタリアのカロッツェリアに依存するかのどちらかしか無い様に見えます。日本車があんな状態になったら個人的にも嫌だし、そして何よりも日本の経済を支えている産業が潰れてしまうのではないかと言う危機感があります。日本の経済を支えている自動車産業の利益の多くは海外向けですから。
それに漫画やアニメーションが低質になりそうでイヤですね(というか既に質が下がっている様に見えます。)。僕が週刊少年ジャ○プを殆ど見なくなったのは、絵の質に対する抵抗が大きいです。アニメについては殆ど見てないので絵の質については分かりませんが、輸出が大きなウェイトを占めているモノがあるのも知っています。やはり美術教育の廃止などしたら質の低下が予測できると思います。僕の頭では経済的デメリットばかりしか思いつきません。
大体、授業が面白い面白くないで言うなら、義務教育なんて廃止すべきですよ、それで世の中成立つかは知りませんけどね。
投稿者 アイスストーン : 2007年01月03日 15:35
もういっちょ書きます。
>同じ公立中学校なのに先生の当たり外れが大きい。
これは単に学習指導要領に則らない教師の問題ですよね?
それを言ったら美術に限らず、あらゆる教科に該当するんですけど。大体、改善策を考えず「要らない」になる論理付けが全く理解できません。
また、中学で授業を受ける事によって美術に目覚めた人の話は研究結果には含まれてませんか?僕はそういった人達が先に挙げた経済的要因で貢献すると思うんですけど、そうは思いませんか?
corvoさんと被りますが、どんな機関でどんな水準で研究している方なのか物凄く関心があります。万が一軽い気持ちで美術授業が廃止され、その結果モノ作りが世界的競争力を失ったら、多くの犠牲者(失業者)が生まれるかもしれない重要な事ですからね。
投稿者 アイスストーン : 2007年01月03日 16:36
>アイスストーンさん
何かを習得するための授業というのは、決して面白いばかりではないですよね。美術の場合、国語のようにどうしても習得しなくてはならないものではないという側面がありますが、ただ楽しければ良い、面白ければ良いというものではないと思います。
lennyさんには、是非、質問に答えてほしいと思います。
また、美術の授業がなくなった場合に予測されること、それに変わる物があるのか、美術教育を研究している立場からコメントいただければと思います。
投稿者 corvo : 2007年01月03日 22:37
こんばんは。お久しぶりです。
短い文で多くが伝わらなかったので補足です。
すべてお答えできなくてすみません。
私は義務教育現場を経て、現在は研究機関で研究しています。
あまり詳しく書けなくてすみません。
まず、私は美術をこよいなく愛し、存続また、拡大させたいと考えています。それがゆえにあえて批判的に意見を述べていると考えていただければありがたいです。
corvoさんやアイスストーンさんの意見はもっともです。
まずは評価についてです。
私の言う評価は成績だけではありません。
1.個人的にどんな力がついたかというもの。
2.教師自身の授業評価
3.生徒の自己評価(自分がどんなことができたか)
その他、評価にはたくさんありますが、このどれも受験には関係ないことはわかっていただけるでしょうか。
もうひとつは授業に無駄はあってはならないのです。
(もちろん、授業中の生徒を和ます程度の雑談は無駄とは考えていません。)
生徒はあらゆる場面で成長をします。
また大げさな表現で申し訳ないですが、1週間168時間の美術はたった1時間です。すべては美術中心にまわっていないのです。美術担当でも生徒とかかわる時間は授業以外の方が多いのはいうまでもありません。
では、全国に学習指導要領にそって授業をしている美術教師がどのくらいいるのでしょうか。これは調べていないので分かりませんが、教科書を使っていない教師は多いのでは。
学習指導要領や教育課程はアイスストーンさんの言われるように経済、産業が基盤にあります。その世の中が必要のないと判断しているのは事実です。(私が必要ないと考えているのではありません)
なぜ?と一度考えればいろいろ見えてきます。
もう一点は技術家庭科の存在です。
もしかわりがあるとしたら、技術家庭科か総合学習です。
もちろんかわりにはならないのですが。
また、よりますのでこのくらいですみません。
投稿者 lenny : 2007年01月10日 19:13
>lennyさん
随分雑な研究機関に所属しているんですか?
推測というか妄想のようなコメントが随分あるようですが。
しかも何だか最初のコメントと違う点の多々は、僕が書いた事をトレースしただけに見えるし…。
投稿者 アイスストーン : 2007年01月10日 20:49
ここは同じ土俵でないことがわかりました。
管理人さんが前向きな方だと思い、投稿しましたが、
あまり建設的な意見は得られないことがわかりましたので、これで失礼します。
投稿者 lenny : 2007年01月10日 22:40
>lennyさん
その方がいいと思いますよ。
だって公表出来ないような秘密の機関なのに、中途半端な情報を漏洩するのはどうかと思いますから。しかもここのブログは、エントリー関係でグーグル検索してたら上位に来るんから色々な数多くの人達の目に晒される事になるし。
それに、色々な学校の色々な授業を見て回っているのに、それが要領に則っているのかどうか分からないなんて、まるでタチの悪い冗談みたいだし。
「中学校では多くが学校独自でカリキュラムを組んで取り組んでいます。私はこれに大きな問題があると考えています。」「同じ公立中学校なのに先生の当たり外れが大きい。」というのは色々な授業を調査した結果ですよね?それって要領に則っているかどうかの判断が出来ないレベルの調査なんですか?
投稿者 アイスストーン : 2007年01月10日 23:00
>lennyさん
管理人の corvoです。コメントの書き込みありがとうございます。
ネット上では、自分の身分をさらす危険というのは理解出来ます。
ただある程度、責任をともなった発言をする場合には、立場を明確にしておいたほうが説得力があるということは否めないと思います。
>私は義務教育現場を経て、現在は研究機関で研究しています。
あまり詳しく書けなくてすみません。
小学校、または中学校で教師をされていたということですね。美術教師であったと理解していますが、この書き方では確証は持てません。
また、研究機関ということですが、こちらに関しては想像のしようもないです。
研究をしているということであれば、論文を掲載した出版物等は発行されていないのでしょうか。
美術教育を改善していきたいという意思をお持ちなのに、研究機関がどういったものであるかを公表できないことが不思議です。
僕自身はここの管理人であるし、出版著書等もあり、自分の身分や本名が知られているので、ほとんど隠す物はないです。美術教育問題で頑張っておられる友人、知人の教師のなかには、本名と身分をきちんと明示して、ブログやサイトで発言されている方も多いです。
もちろん研究機関の公表等を強制はいたしませんが、このまま議論を続けても、建設的な方向性は難しいかもしれません。
>もうひとつは授業に無駄はあってはならないのです。
(もちろん、授業中の生徒を和ます程度の雑談は無駄とは考えていません。)
生徒はあらゆる場面で成長をします。
僕のかんがえる無駄とは、ちょっと違うかもしれません。
教師にとって学校は職場ですから、緊張感のある、生徒にとっては常に学びの場であるべきです。僕のかんがえる無駄とは、遊びの要素も含んだ、人生にとってのゆとりのようなものだと考えてもらうと良いかもしれません。これは、教師にとっても生徒にとっても、必要なものだと思います。
学校というところは大きな組織でもありますから、全ての教師が優れているわけではないでしょう。かといって全ての教師が授業のエキスパートになってしまったら、それは有名予備校と変わらない状態であると思います。
>まずは評価についてです。
私の言う評価は成績だけではありません。
1.個人的にどんな力がついたかというもの。
2.教師自身の授業評価
3.生徒の自己評価(自分がどんなことができたか)
その他、評価にはたくさんありますが、このどれも受験には関係ないことはわかっていただけるでしょうか。
これらの評価については、もっともなものだと思います。
直接、受験には関係ありませんが、自分自身を俯瞰したり、客観的に見つめるためには重要な資質を育てるものだと思います。そういった点では、受験にも多いに関係があるのではないでしょうか。
>ここは同じ土俵でないことがわかりました。
管理人さんが前向きな方だと思い、投稿しましたが、
あまり建設的な意見は得られないことがわかりましたので、これで失礼します。
残念なことですが、そう判断されるのなら、いたしかたありません。
ご自分でブログなり、サイトなりを運営して、意見の集約を試みてはいかがでしょうか。
ここで意見を書くだけでは、いつまでたっても人の褌で相撲をとることになると思います。
投稿者 corvo : 2007年01月12日 01:08


