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2007年9月19日

『SAISON ゲニウス・ロキに導かれて』、ギャラリートーク

更新が遅れがちです。コメントの返答も遅れてしまっていて、申し訳ないです。

17日の出来事。友人と連れ立って、先週のオープニングパーティーに引き続きアカデミアプラトニカへ。この日は出品作家と小泉先生を交えて、ギャラリートークが開催されることになっていたからである。朝、最寄り駅で友人を拾い、少し僕のスタジオに寄ってから一路那珂市へ。まだ、タイヤ交換前だったので、ステアリングに伝わる振動を気にしながらのドライブだったのだけど、天気もよく(というか暑かった)気持ちよく走る事ができた。那珂市内のイタリア料理店でランチを済まし、ギャラリートークへ参加。G3が一杯になるほどの盛況ぶりで、60名ほどの参加だったらしい。
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出品作家の面々と、小泉先生、ゲスト参加された東北芸術工科大学の石井教授。
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司会をギャラリーオーナーである青木芳昭さんがを務め、出品作家が自作品についてコメントした後、小泉先生がさらにコメントを加えていくというスタイルで進行。作家たちはしっかりした口調で、物怖じせず作品について話をしていく。会場内は固い雰囲気になることなく、小泉先生との軽妙なやり取りは聞いていて楽しい。僕があの年齢のときに、これほどきちんと人前で話ができたかというと、はなはだ怪しい。
実際の作品を目の前にしないと難しいところもあるのだけど、「絵画のパースペクティブ(遠近法)」がひとつの論点となった。青木航太さんは多視点。小田倉由紀さんは素材(絵の具)とイメージの曖昧さ。大塚麻美さんは空間を喪失した画面。関勝仁さんは具体的な空間を描きながら遠近感の喪失。これらは欠点というわけではなく、それぞれに制作をしてきた結果なのであろう。問題は、どこまで意識的に出来ているのか。絵画を描く以上、これまでの絵画の歴史から自由になることはできない。しかし、それは短所でなく、大きな可能性を秘めた追究の道であると僕は考えている。
僕もいくつかコメントしたのだけど、彼らの作品には可能性とともに、僕にとってもたくさんのヒントとアイデアを含んでいる。見ているとどんどんアイデアがわいてくる。自分の頭の中を整理することもできた。悪く言えば、盗める要素がいくらでもある。作品を発表するということは、こういった危険性をいつもはらんでいる。それ故に、表現に対しては常に誠実に、責任をもっていなくてはならない。
パースペクティブを失ってしまうということは、自分の立ち位置の喪失に繋がってしまう。僕はこれは危険なことだと考えていて、表現やコミュニケーションに大きな問題を生み出してしまうことになるのではないだろうか、現在、ネット上で垂れ流される責任を伴わない言説や画像は、本質的な表現ということを放棄してしまっているように、僕には見える。
そこからは何も産まれないだろう。誰もハッピーにならないだろう。本人の自己満足のためだけに排泄される事物は、他人にとっては不快な物以外のなにものでもない。

会場からの作家たちへの質問で、どれぐらい作品の購入者のことを考えているか?というものがあったのだけど、これはプロとしてやっていくなら重要な視点だろう。作品の体裁、展示しやすいサイズ、劣化しにくい画材の使用法など、考慮すべきことはたくさんある。また、値段の設定も難しくも、重要な問題である。
貧乏で、食うや食わずで、作品を制作し続けるのは苦しいばかりである。よくゴッホを引き合いに出す人がいるが、彼は弟の援助のもとで、高価な画材を妥協する事なく使用して、自殺するまで制作していた。ゴッホは、売れなくても良い、理解されなくても良い、と思っていたわけではなく、画家として独り立ちできることを切望していた。それを、芸術に殉じた美しい物語にしてしまうことは、ゴッホ本人に対する冒涜に近いものを感じる。
だから、貧乏でも制作し続けられればいいと考えるのではなく、正統な報酬を受け取って絵を描き続けるにはどうすればいいか、ということをこれから作家になろうと思う人たちには考えてほしいのである。

あまりうまくまとめられなかったので、コメント欄での突っ込み大歓迎です。
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投稿者 corvo : 2007年9月19日 23:51