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2006年1月 9日

杉本博司ー時間の終わりー展

今日は午後から、六本木の森美術館へ。最終日である「杉本博司ー時間の終わりー展」を見に行くためである。
天気も良く、暖かな日。祝日であるためか、チケット売り場前から混雑している。まさかチケット買うまでに、並ぶことになるとは思わなかった。行列する通路が建物の中とはいえ、外気とのしきりがないため寒い。といっても、15分ほど待っただけでチケットを買うことができた。
一番、心配していた会場の混雑もなく、ゆっくりじっくり作品と対峙することができた。

最初の展示室、白く巨大な直方体の柱(壁)が、林立している。展示空間の入り口からは、作品の画面を見ることは出来ない。すべての画面が柱の裏がわに設置してある。ひとつひとつの作品は、シルバーゼラチンプリントを額装したもの。印画紙に定着された光の芸術、写真である。額から印画紙、作品のキャプションに至るまで、徹底した美意識で作られている。僕は多少、写真も撮るのだけど、デジタルでなく印画紙に保存された光の美しさに、いつも圧倒されてしまう。僕の手で描くことは不可能な領域だと、絶望させられるほどの美しさと強さがそこにある。
写真の有利な点のひとつに、画面の大きさをある程度、自由に設定できることがある。撮影されたフィルムの大きさによって、引き延ばすことができる限界はあるが、小さい物を撮っても、大きなものを撮っても、または空間であっても、自在に画面の大きさを変更することができる。これが、絵画の場合だと出来ない。最初に設定した画面の大きさ、肉体の限界など、物理的、身体性に関わる制約をどうしても受けてしまう。デジタル絵画であれば、この制約を取り払うことができるが、従来の絵画の持つ身体性を失ってしまうことになる。
この展示を見る限り、インスタレーションなどという表現形式は、吹き飛んでしまう。これが真のインスタレーションだろう。ひとつひとつの作品が美しく独立して、さらに大きな空間を形成する単位として機能している。展示するとき、杉本博司は、必ず展示空間の設計(もちろん既存の空間の制約の中で)まで自ら行うという。僕は、今日、彼の徹底的に磨かれた美意識の中に浸りきることが出来たのだ。これは最高に幸せなことであり、最も悔しい瞬間である。
彼は、僕など比べようもないほどのキャリアを積み上げてきた作家ではあるが、作品を作っている以上、それが世の中に出てしまった時には、全ての物が同列に評価されなくてはいけない。同時代に生きる人間の作った、圧倒的に美しい物を目にすることは、敗北感に苛まれる瞬間でもある。これは正直なところだ。しかし、負け続けるわけにはいかない。美しいものを作りたい、見たいという欲求は人間にとって自然なことなのだと実感する。

水平線を撮り続けている作品のシリーズ。展示室には能舞台が設置してある。会場に鳴り続ける高周波の音が、少し僕には辛い。でも、その音がひとたび鳴りやみ、しばしの静寂が訪れたとき、不思議な感覚を味わった。今まで高い音に引っ張り上げられていたような感覚が、すっと脱力したように心地よく落ち着く。そして、ふたたび音が鳴り始めると、少しの不快感とともに緊張感が増してきて、画面に向かう感覚が変化してくる。能舞台の檜の香りもあいまって、静かな中にも心をざわつかせる不思議な体験であった。

彼のインタビューをまとめた映像を、会場で流していたのだけど、その中で「写真」は「化石」であるという話をしていた。写真は時間の瞬間を切り取り定着させる。化石はその生物の時間がとまり、定着した状態である。だから同じ物なのだと。これには目の覚める思いであった。僕の中に別の視点を開けてくれたように思う。
これまで、僕は化石から生きた姿を復元することを試行錯誤してきたわけだが、それは、化石となってしまった生物を、我々の時間の中に蘇らせるような感覚であった。しかし、本質的には、その化石の時間を巻き戻していくことが復元なのだ。僕は、そのことをあまりに軽視し、忘れてしまっていたかもしれない。また、杉本博司は「化石」をいくつか、大切にコレクションしている。過去の生命に対する敬意を忘れてはいけないのだと。さらに彼はその保管庫を「神棚」として、手を合わせるのだと語っていた。

今日が最終日で、もう見ることは出来ない展示ではあるが、大変満足した展覧会であった。ここでお薦めと書けないのが残念。おしむらくはこの美術館が、六本木にさえなければ、ヒルズタワーの中にさえなければ、とついつい思ってしまう。
僕はどうも六本木が苦手なのである。
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投稿者 corvo : 2006年1月 9日 22:07