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2011年3月21日

写真と写実(twitterまとめ)

先日、twitter上で「昔の人は何故写実的に描かなかったのか?(かなり誤解あり)」といったツイートが友人からあり、そのことについてまとまったツイートをすることになったので、以下に全文を掲載しておく。
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現代においても写実とは何か?という問いに明確な答えはない。写真の発明以前と以降で、絵画の役割に大きな変革があったが、はたしてどれほどのものだったのだろうか?
フェルメールに代表されるように、写真以前においても絵画制作に光学機器が使われている。当時の人間も写真のように世界をとらえることを試行していたのかもしれない。
ただし、写真自体はないので、何を目指そうとしたのかは分からない。おそらく偶発的に穴から壁に映ったイメージをとらえようとしたのかもしれない。また、デューラーのスケッチを見ると、硝子の板に点をとって構図を決定しようとしている物がある。
ちょうど昨年末ごろ、デヴィッド・ホックニーの「秘密の知識」という本を入手した。この本の中でホックニーは、アングルの描くデッサンがあまりに巧みすぎることに対して、ある仮説を提示している。
光学的な補助具を使ってイメージをトレースしてから描き始めたのではないかという説である。使用されたのは、カメラルシーダ。カメラオブキュスーラと違って明るい室内や野外で使用することができる。
僕も現在市販されているカメラルシーダを購入してスケッチをしてみたが、それほど容易に使える道具ではない。かなりの熟練を必要とする。
16世紀から17世紀にかけて油彩の技術は飛躍的な進歩をとげて、写実的に描く技術も頂点に達する。ホックニーはその進化の過程に光学機器が重要な役割を持っていたと示唆している。
貴族の豪奢な衣装を描くとき、モデルに長時間のポーズを今以上に強いていたのかもしれないが、服の皺が常に一定の形で出るとは考えられない。おそらく光学機器の助けを借りて短時間に皺の形を写し取っていたのではないだろうか。
金属の光沢。複雑な甲冑のフォルム。ある表情の瞬間をとらえた肖像画。まるで写真を使って描いたのかのような絵画が存在する。いくら優れた技術を持っていたとはいえ、それだけでは説明のつかない完成度が当時の油彩にはある。
現代では瞬間的なポーズであっても写真を利用することができる。目指すべき目標と答えがすでにあるようなものだ。では、はたして写真に近づけることが絵画の目的であり、写実の重要な点なのであろうか?決してそうではない。
写真は光の量をとらえているだけにすぎない。肌と眼球の質感が違うことなど分かっていない。我々の身体の中に骨格があることも、筋肉で動いていることも写真にはなんの関係もないことである。
写真家杉本博司にろう人形を撮影したシリーズがあるが、一見生きた人間を撮影したもののように見える。そこには歴史上の偉人たちが写っているので違和感をすぐに感じるのだが、写真にとっては生きた人間も、命のない人形も関係ない。
絵に描くとき、僕たちは人間の中に骨や筋肉や内蔵があることを知っている。顔を描きながら、その人に後頭部があることを知っている。だからこそ、僕たちは写真以上に多くの情報量を絵画のなかに込めることが出来る。
結論を急ぐと、写真以前と以降において、絵画の持っている優れた点は何も変わっていないと思う。答え合わせがやりやすくなったか、そうでないかの違いだろうか。写真が発明されても絵画なくなることはなかった。
現代の写実をどう評価するかはここでは述べないが、現実の世界をどうやって絵画という二次元の世界に再現するかという命題を追い続けてきた人類の歴史は、今でも尊く気高いものであると、人間にしか出来ない抽象化であると僕は思っている。
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投稿者 corvo : 2011年3月21日 12:31