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2007年10月28日

「写実」と「写真」

僕はもともと、写実的に絵を描くのが好きである。高校生のときに見た芸術新潮(だったと思う)に、スペインマドリードリアリズムの特集があり、その代表的な作家であるEDUARDO NARANJOの精緻なテクニックには驚愕したものである。彼の作品は、1991年に高島屋で開催された『スペイン美術は、いま… マドリード・リアリズムの輝き』で見る事が出来たのだけど、その精緻な絵肌、驚異的なテクニックには、改めて驚嘆した覚えがある。ただ、これまで振り返ってみると、彼の絵を好きになったことも、魅力を感じた事もないというのが正直な感想である。マドリードリアリズムで紹介された作家で誰が好きかと問われれば、僕は第一にJosé Hernándezの名前をあげる。リアリズムというよりも、幻想の画家といったほうが、ぴったりくるだろうか。彼の描く奇妙な形態をした人物とも生物も言えないような物体は、僕にはとても魅力的でその空間に引き込まれてしまうのである。
金曜日に、リアリズムの画家である磯江毅展を銀座の彩鳳堂画廊へ観に行ってきたのだけど、EDUARDO NARANJOに対するのと同じような感想を持ったのである。
絵画の歴史において、写真の発明は大きな転機のなったのは確かだが、現代リアリズムと呼ばれる作品群は写真がなければ成立することはなかったはずである。写真以前には、リアリズムの絵画は存在しないと言っても良いだろう。文字通り写真のような描写、写真のような絵画、というのは写真の発明以降現れたものである。
リアリズム絵画の描写は凄まじいものである。対象にどこまでも迫っていくように、もはやタッチも見えないほどに描かれている。でも、僕には息苦しい。画面の中に入り込んでいくことができないのだ。絵画は近くで見たときと、遠く離れたときで、印象が変わる場合が多い。僕の大好きなレンブラントはその最たるもので、離れてみるとリアリティのある質感が迫ってくるのだけど、近づいてみるとただの絵の具の集積しか見えてこない。絵の具の不規則な凸凹が皮膚の毛穴のように見えたり、1本1本の髪の毛に見えたりしてくるのは、絵画の醍醐味だろう。一方、リアリズム絵画は近づいても離れても、印象は同じである。凄いことなのかもしれないが、そこまで「描く」という行為に僕自身は意義を見いだせない。画面の中に新たな世界が創出しているのではなく、ただ現実と同じものがあるようにしか見えないのである。
かつてオランダでもヴァニタス画と呼ばれる、精緻に描写された静物画の一ジャンルがあった。現代リアリズムに比べればあっさりとした描写であるが、それぞれのモチーフの豊かな質感を感じることができる。一時代、人気のあったジャンルだけに、多くのヴァニタスが描かれていた。当時の画家には仕事で描く以上、巧く手早く仕上げることが要求されたことだろう。年間に2、3点という制作点数では許されなかったはずである。
ルネッサンス期を始めとして、名だたる巨匠たちはなぜリアリズム絵画を描かなかったのか。それは写真がまだなかったからではないだろうか。実際の三次元の世界だけを体験していたら、現代リアリズムのようなビジョンを持つことはないだろうと思われる。現代は二次元のビジュアルがあふれていると言っても過言ではない。写真だけではく、映画やテレビ、パソコンのモニター、あらゆるビジュアル体験が二次元に落とし込まれている。現代人は写真が発明される以前の人々よりも、圧倒的に二次元の視覚体験にさらされていると言ってよいだろう。
だからこそ、すんなりと現代リアリズム絵画が受け入れられるのかもしれない。しかし、僕の考える絵画とは違った方向にあるものだ。個人的な感想ではあるが、彼らの作品を絵画として楽しむことは、僕には出来ないのである。
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投稿者 corvo : 2007年10月28日 02:50