STUDIO D'ARTE CORVO

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update 2020.05.10

石膏デッサン

石膏デッサン、もう何年も描いていないが(何年どころか二桁年以上か)、今でもちゃんと描ける(と豪語しておく)はずだ。美術教育のなかでも古く、その存在を疑問視されることもある石膏デッサンだが、僕はきちんとした手順、正しい目的で行えば素晴しい美術教育のひとつの方法だと考えている。もっともまずいのは石膏デッサンという型を目的とし、一見上手く描かれた石膏デッサン群を目指すことで、そのことにはほとんど意味はない。極論を言えば上手く洗練された石膏デッサンを目指すことには、さほどな意味はない。ここで大きく、多くの美大受験は間違ってしまったのかもしれない。
石膏となっている元の型は、巨匠たちの彫刻やまたその模作、建築物の一部の装飾彫刻であったりするが、その中に内包される美意識、造形力、積み重ねられた伝統は、大きな力を持っている。それらを(手軽に)追体験できることは石膏デッサンの醍醐味だろう。ギリシャ、ローマ時代の巨匠たちやミケランジェロ、彼らの手の動きをたどるようにタッチをいれていく、彼らが造形した美しい人物像の神髄を垣間見る。そして彼らは決して動かない。動いてしまうのは我々の視点のほうだ。とくに木炭で描く石膏デッサンは、何度も消したり描いたりすることで、形を吟味し本質に近づけていくことができる。何度もトライアンドエラーを繰り返し、すこしでも巨匠たちの業に近づきたいと悪戦苦闘する。そのプロセスこそに意味がある。要領よく手際良く描かれた石膏デッサンに作品としての価値もなければ、そこを目指すことにはほとんどの意味はないだろう。

なぜ、今更ながらそんなことを思ったかというと、昨日のシルクスクリーンの作業がきっかけである。今回は、大学の先輩でもあり美術家である黒沼真由美さんが、成安造形大学の版画ラボを使ってTシャツにシルクスクリーンを刷りにきている。聞くとシルクスクリーン自体、ほぼ20年ぶりでほとんど作品としての制作もしたことがないということであった。にも関わらず、ある程度の手順に習熟して以降は、ほとんど何もアドバイスすることはなくなってしまった。素晴しいと思ったのは、常に道具のコンディションを最適に保ち、一番良いパフォーマンスが発揮できるタイミングを探ることができることだ。どこで版を掃除するか、いつ詰まりやすくなるか、どの段取りで進めることがもっとも効率がよいか。そんな諸々のことをいちいち指摘することなく、ほぼ失敗もなく数十枚を刷り上げてしまった。

美術のトレーニングは石膏デッサンが全てではないが、確実に多くのセンサーを備えることには役つ、形に対して、光に対して、陰影に対して、質感に対して、色彩に対して等々。そして、そのそれぞれのセンサーのグラデーションをできるだけ豊かに繊細にすること。
おそらくこれらのことは、どんな仕事においても、研究においても、学問においても、重要なことであろう。
きちんとセンサーの備わった人にとっては、初めてのことも久しぶりのことも、それほど苦もなく対処できる。それでも失敗や予期せぬことは起きるが、そこからの対処も素早く対応することが可能になる。
そんなセンサーを培うには、石膏デッサンというトレーニングは、なかなかに有効な手段なのではと思った次第である。